Outside

Something is better than nothing.

『天気の子』(2019年)

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

 

 新海誠の『天気の子』を観る。

 中学三年生の天野陽奈は、母親の看病中、雨の東京の中である一点だけが晴れていることに気づき、興味を持ってそこに赴く。強い思いを抱きながら鳥居をくぐると、彼女は空の世界に飛ばされて、何やら不思議な体験をしてしまう。高校一年生の森嶋帆高は島育ちの閉塞感からか、東京に家出をする中で、フリーライターの須賀圭介と出会う。最初は年齢を偽ってアルバイトを行い、何とか生計を立てようとするものの尽く失敗し、マクドナルドで三日連続でスープだけ飲んでいるところを店員をしていた陽菜に見つかってビックマックを貰う。その後、路地で寝泊まりしているところ、ひょんなことから拳銃を手に入れて隠し持った帆高は、何かあったらと須賀の名刺を元に彼のオフィスに行き、夏美という彼の親戚の女性とともに三人で、オカルト系のライターとして住み込み、賄いありの仕事につくことができる。仕事の中で百パーセントの晴れ女の噂を聞きつけた彼は、それをなんとなく心に留めていく中で、いつかビックマックをご馳走になった陽奈が水商売のスカウトの男に連れられて怪しい事務所に入ろうとしているところに、正義感に駆られて助けに入るものの、呆気なく返り討ちにされて、お守り代わりに持ち歩いていた拳銃を発砲してしまう。その後、陽奈とともに逃げ、あの鳥居のある代々木の廃ビルに逃げ込んだ二人は、紆余曲折あった果てに仲良くなる。高校三年生を名乗る陽奈は、小学生の凪という男の子と二人暮らしで、母親が亡くなったため子供だけで二人暮らしをしている。そのためお金が必要だと聞いた帆高は、彼女のために晴れ女稼業を思いつき、雨が続く東京の中で、少しだけ晴れ間を呼び寄せるというアルバイトを行うようになる。順調に思えた彼らだったが、帆高の発砲は監視カメラに撮られており、警察が捜査を行っていた。晴れ女稼業は人々の需要もあり成功していたが、陽奈の存在が次第にクローズアップされ始めたために一旦休止することにする。そして、その中で須賀がかつて結婚しており、妻を交通事故で亡くし、母方の祖母の家で娘が育てられていることが分かる。雨が続く東京の異常気象は際限なしに続き、ある日、とうとう真冬並みの気温にまで下がり、雪が降る。警察の捜査の過程で、須賀のところにも、陽奈の自宅にも帰れなくなった帆高、陽奈、凪の三人は、冠水する東京の中を彷徨い、池袋のラブホテルをようやく見つけ出す。そこで奇跡的に楽しい一夜を過ごすが、その夜に陽奈は自分の体に起きている異常を帆高に告げる。それは体の一部がだんだんと透明になっている、というものだった。陽奈は夏美から人柱の話を聞いていたので、自分はおそらくそうなる定めなのだ、と言う。そして、その夜を境に陽奈は消えてしまう。翌日、警察が部屋にやってきて、帆高と凪は警察と児童相談所に分かれる。これまでの天気が嘘のように、快晴に包まれる東京。しかし陽奈を探したい帆高は警察署を抜け出て、夏美の協力もあり、あの神社に向かう。そして代々木の廃ビルの中で須賀の説得を受けるが、かつて廃ビルに捨てた拳銃を拾って、帆高は陽奈に会いたいのだ、と心のうちを叫ぶ。警察がやってきて帆高を取り押さえるが、会いたいのに会えない者がいる須賀は帆高の心を慮り、警察の制止を振り切って帆高を屋上の鳥居に向かわせる。そして帆高は鳥居をくぐり、その中で世界のあり方を変えてしまう大きな選択をする。それは晴れ女、天気の子としての役割から陽奈を下ろし、生きていく、ということだった。事態が収拾し、しかしふたたび雨にまみれた東京はその後三年あまりも、雨に降られ続ける。東京の形、世界の形を変えてしまった帆高は、そのまま島に戻って高校を卒業し、保護観察期間を終えたことで東京に戻り、須賀に謝罪し、かつて晴れ女稼業でお世話になったおばあちゃんにも会いに行き、最後に陽奈と再会する。

 スターシステム的に前作の『君の名は。』の世界観や登場人物のクロスオーバーがあり、同時に矛盾もあるが、それはいいとして、おおむね方向性は前作のような具合であるようで、これまた違う。

 前作がRADWIMPSによる音楽のダイナミックさに、ある意味でPVと揶揄されても仕方ないような、それでいて、その揶揄を物ともしないようなスピードで作り上げた映像作品であるならば、今作はその方向性を微妙に修正しつつも、一部では継承し、同時に「宿命」とか「定め」とかいったものについての、一つの諦観を示しているようにも思われる。

 前作同様、神社や鳥居的なモチーフといったものが呪術的で、おそらく説明不可能な力の源(かなり都合がいいと言えば都合がいいと思う)として使われていて、いったい仏教なのか神道なのか、習合しているのでどっちでもいいのかもしれないのだが、まあそういう類のオカルト的な要素を無反省に入れている。前作はダイナミックさとスピードによってある程度を置き去りにできたかもしれないが、今作はそのようには感じられないのは、スピードに慣れてしまった、ということもあるかもしれない。

 現状維持や現状肯定に溢れ、そういった作中の思考、思想については個々の好みもあるかもしれないが、大人であるということ、あるいは子供であるということについての迎え入れ方のようなものが、おそらくは根本的に間違っているように感じられて仕方ない。これは新海誠に限ったことではないのだが。

 世界のあり方を、誰が望むまでもなく自分たちの都合のいいあり方に変えてしまうこと。それは多分にアクチュアルなテーマであり、その追認というのはアクチュアルな現象でもあると思うのだが、『天気の子』という創作物がそのアクチュアルな物事の中で、非常な強度をもってなし得ようとした結果については、いささか反論したいような気がしたのであった。

 かくのごときどうしようもないストーリー展開の中で、RADWIMPSが音楽を(たしか)総合的に担当していたはずで、ボーカルのない音楽についてはかなり良く感じられた。他方でボーカルは時に喧しく、そのメッセージ性はあまりに直接的に映画を物語ってしまうところは、やはりどうあってもPVの域から脱しきれていないように思われる。