Outside

Something is better than nothing.

『TENET』(2020年)

 クリストファー・ノーランの『TENET』を観る。
 冒頭、ウクライナキエフ、オペラハウスでジョン・デヴィッド・ワシントン演じる工作員の男はテロ事件に対処するため、特殊部隊に混じって作戦を実施したが、途中、敵対組織に捕まり、自殺用のカプセルを飲み込む。目を覚ますと自分は生きており、テネットという組織に加わり世界を救うことを説明される。そこでオペラハウスでも不可思議な現象が起こっていたが、逆行する弾丸を始めとする時間の逆行を目の当たりにし、ロバート・パティンソン演じるニールとともにプルトニウム241を手に入れるため、ケネス・ブラナー演じる武器商人のセイターを追うことになる。ムンバイの武器商人の元に情報を得に行く過程で、表の顔として振る舞う夫ではなく陰で実力を持っているディンプル・カパディア演じる妻プリヤと協力し情報を入手し、セイターの妻エリザベス・デビッキ演じるキャットと接近することにする。彼女の夫婦生活は破綻しており、そこに何か活路がないかと思われたが、彼女の浮気相手が描いたとされるゴヤの贋作をきっかけに彼女を接近すると、日常的にドメスティック・バイオレンスを行うセイターの存在が浮き彫りになる。少しずつ彼女に肩入れしていく男は、彼女の弱みであるもう一つのゴヤの贋作を破棄するために空港に飛行機を衝突させ、その混乱に乗じてフリーポート内の贋作を破棄しようと画策したが、逆行してきた兵士によって阻まれてしまう。彼女には贋作を破棄したことにして、セイターと接近することに成功する。テナン警察からプルトニウム241を奪取すること自体は成功したものの、セイターによりキャットを人質に取られ、さらには裏を掻かれてしまい、プルトニウム241に偽装した何かが奪われてしまう。キャットが撃たれてしまったため、時間を逆行することで彼女を救うことにする。そこには回転ドアのような装置があり、そこに入ることで時間のベクトルを変えることができるようだった。男はキャットとともに時間を逆行し、そこに留まり続ける以上、敵の拠点であるがゆえにいずれは戻ってくる可能性を考慮して、空港にあった装置に順行状態に戻すために向かう。そしてそこで彼らは自分自身と対峙することになる。何とか無事に時間の順行状態に戻ることはできたものの、セイターの目論見を打破できたわけではない。どうやら彼はプルトニウム241に偽装されているアルゴリズムという未来の装置を使い、時間を消滅させることで世界を消滅させようとしている。そして癌に侵された彼は、セイターやキャットらが旅行していたベトナムでその時を迎えようとしていた。男たちはそれを阻止するためにセイターの生まれた旧ソ連の地図に載っていない都市スタルスク21と呼ばれる、かつてセイターが何かを拾った場所、そしてアルゴリズムがある場所に向かう。キャットはベトナムに逆行して戻り、順行した後に、何食わぬ顔で彼の前に現れて抹殺する任務を負う。男とニールはそれぞれ順行組、逆行組とで任務が分かれて別行動を取るのだが、敵地ということもあり壮絶な攻撃に晒される。しかし、敵の深部に辿り着いた後、男は何者かの力を借りて最後の敵を倒し、セイターの野望を打ち砕くことができたのだった。キャットもまた、最後は自分の激情に駆られてしまったものの、しかしセイターを殺すことに成功する。そして、男はニールと話しているうちに、最後に自分を助けたあの何者かは彼であったこと、そして彼はまたこの後、長い間、自分と関わりにある中間地点にいることに気づくのだった。すべてが終わったかのように見えたとき、プリヤがキャットを消すためにイギリスに現れる。しかし、それを男は止める。彼こそが、テネットを作った存在であったのだから。
 クリストファー・ノーランと言えば、前作の『ダンケルク』が一番面白かったように思うのだけれども、この作品も面白いことには面白かった。とはいえ、音響は煩いし(音楽は良かったのだけど)、感想を書いてみて思うのはやたらめったら複雑で、とりあえず順行の世界に所属する者として可能な限り書き起こそうと努めたのだけれど、途中から面倒臭くなるほど複雑なストーリーであって、それが果たして本当に良かったのかというと少し考え始めるところである。
 しかしながら、映像表現という観点において、これほど面白いものはなく、同時に観ていて画面に何が起こっているのか理路整然と語れないにもかかわらず、しかし「分かった」ような気にさせてしまうという、よくよく考えると、これこそが映画における本質的な「暴力」ではなかったのかと言いたくなるような複雑な「映像」の連続で、私は観ていて楽しいんだけれどもかなり疲れてしまった。
 一つ一つのアクションシーンについては検討したり、頭の中で思い描いたりする分には極めて楽しいものだろうと思う。例えばスピルバーグの『タンタンの冒険』が、その他の(彼の監督した)実写映像作品と比べたとき、どれほど物理的な映像という軛から逃れて、目まぐるしいものか!という映像の楽しみを感じさせたのとある意味では同様だろう。ただ、ある意味では非常に苦しいことは確かである。その苦しさのようなものを肯定できるかどうか、が、この映画の評価になるのではないか、というのが私の観点である。
 話は変わって、主人公の名もなき男であるが、彼はアフリカ系のキャラクターであり、何もバックグラウンドを持たない人間である。昨今のBLMを考えたときに、これほど過去が漂白された人物像というのはどうなんだろうかとも思うのだが、他方で彼のこの視点が誰のものでもありうるということを表象できるほどに、アフリカ系は少なくともマイノリティではないのだ(単に力のないマイノリティではなく、アジア系の私が観たとしても違和感なく移入できるほどに普遍的なものを持っているのだ)、という見方はどうだろうか、と思う。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』はトム・クルーズという白人スターの視点をもって表象されたが、この映画のジョン・デヴィッド・ワシントンはいとも簡単に私たちに共感できる視点を提供しているように思われる。それもまったく違和感なく。
 演出面についてはやはりキャラクター造形は少し気にかかった。たぶんこの辺りは好みかもしれないのだが、おそらく私自身の感じ方のエポックとしては『ブレードランナー2049』だったのかもしれない。映画における自足的な表現、というのか。これは上記の主人公格の性格描写も含めてかもしれないのだが、(単にPCに配慮したから、とかそういう理由ではない部分で)この映画や『ダンケルク』における人はまったく必要ではないのではないか、という気がする。極端な話、人形や人の痕跡だけでいいのではないか。そしてアクションの新規軸は、凄まじさと同時にアクションの痛快さを奪ってもいる。それは暴力というものが今や、と書いたけどこれは昔からなのだがレトリックとして、今や異様な形を伴うこと、それを映像に収めようとしているからに他ならないのだが、それを言葉として語るためのものを私は持っていない。
 クリストファー・ノーランの映像作品については、さまざまな視点で語られ、特に今作は『メメント』との関連についてははよく取り沙汰されるだろうと想像するのだが、考えてみると、ノーランの作品において『インソムニア』はどういう位置を占めるのか、ということについてあまり触れられているのを見たことがない。完全に余談ではあるが。