Outside

Something is better than nothing.

『カンバセーション…盗聴…』(1974年)

 フランシス・フォード・コッポラの『カンバセーション…盗聴…』を観る。

 冒頭サンフランシスコのユニオンスクエアで、シンディ・ウィリアムズ演じるアンとフレデリック・フォレスト演じるマークがぐるぐると一ヶ所に立ち止まらずに歩き続けている。怪しげな男たちが二人の行動を見張るようにしているが、それはジーン・ハックマン演じるハリー・コールの差し金だった。彼は盗聴と録音を生業にしており、誰かから依頼を受けては決定的な会話を録音して売っていた。何気ないカップルの会話のように思えたそれも、実は女性の方が会社専務の妻で、男性の方がその会社の社員であることが分かる。不審なものを感じたハリーは、ハリソン・フォード演じるマーティン・ステットに対し、専務からの依頼物は本人にしか渡さないと伝える。孤独な生活を送るハリーは、プライバシーに厳重なあまり好意で贈られた誕生日プレゼントにも、その渡し方がきっかけで文句を言い、親しい間柄の女性についても彼の過去を尋ねるため別れてしまう。ジャズを聴きながらサクソフォンを吹くことが唯一の心の慰みであるようなハリーは、次第にアンとマークの会話にのめり込んでいく。彼らの会話には、どうやら殺されるかもしれないというワードもあった。ハリーは再度ステットと面会日時を調整し、専務へ直接テープを渡すことを検討するものの、その間に行われた盗聴器具の展覧会でテリー・ガー演じるエイミィ・フレデリックスを連れた仲間たちと職場で酒を酌み交わす間にテープを盗み出されてしまう。結局、写真のみを渡しにロバート・デュパル演じる専務の部屋に行き、彼らの行く末を訪ねるものの返事はない。会話の中でホテルの場所と部屋が伝えられるため、そこに行くとやはり部屋は埋まっている。その隣室を取ったハリーは、耳を澄ませたり盗聴器具を仕掛けたりして隣室の様子を知ろうとする。ベランダに出たところで、血だらけの手がガラス面に登場するため驚き、目を塞ぎ耳を塞ぐためにテレビをつけ、そのまま眠る。目覚めて隣室に行くものの、犯罪の痕跡は何もない。依頼主の元に行くが、追い返されてしまう。その後、新聞で専務が殺されたことが分かる。そう、アンとマークは殺されるのではなく、専務を殺そうとしていたのだった。部屋に戻り、サクソフォンを吹くハリーに電話がかかってくる。余計なことはするなという脅迫の電話とともに、彼の部屋の様子を盗聴した音声が流れる。彼は自室の盗聴器を探るが、何も出てこない。壁や床まで剥がして何も見つけられなかったハリーは、物悲しげにサクソフォンを吹くのだった。

 基本的には都会生活の中で孤独な男が妄想を膨らませていく話、ということができると思う。ジーン・ハックマンはそんな男であるところのハリーを好演している。ハリーは同業者からの名声を得ており、また男性的な魅力もないわけではない。しかし、自分をさらけ出すといったことだけができないために、どこか人との関係性(特に女性)がうまく築けていない。そのため、彼はひたすらに孤独なのである。

 何も孤独が悪いわけではないのだが、彼は音声をひたすら物として扱う手管に秀でいているがゆえに、おそらくは音声的な意味における感情の確かめあいについて、やや懐疑的な立ち位置にあるのだろうと推察できる。それは冒頭のユニオンスクエアを終えて、三ヶ所から収集された音声をうまく繋いでいく手腕にも現れているだろう。一種の編集が加わって初めて、彼は感情を理解できるのだ。

 コッポラは自身の脚本を映画化しているのだが、これは確かにそうとしか思えないような気もする。音楽の繋ぎ、場面の繋ぎは一級品で、非常に緩やかなストーリーであるものの観ていてまったく淀みを感じさせない。冒頭のユニオンスクエアを上空で撮影していき、少しずつ寄っていくところからして、まったく目が離せないわけで、そんな状態でクライマックスでもある殺人現場のフラッシュバックや隣室にハリーが入ったときのシークエンスもまたスリリングなのである。感心したのはハリーが隣室に入って、洗面所を見て、室内のベッドを見て、そのパンしていく先にハリーが当たり前のようにいる、ということで、この瞬間において一人称から三人称への視点の転換が効果的に取り入れられている。部屋に入った瞬間は(三人称から)一人称へ転換し、そのまま部屋の内部を映していった先にハリーを映すことで三人称に戻るのである。その後、トイレの水を流した途端に血が噴き零れ始めるところに繋がるわけである。

 非常に良い映画を観た、としか言いようのない映画で、コッポラの手つきのあまりの滑らかさにひたすら感心し通しであった。