Outside

Something is better than nothing.

『ゴーストシップ』(2003年)

ゴーストシップ (字幕版)

ゴーストシップ (字幕版)

 

 スティーヴ・ベックの『ゴーストシップ』を観る。

 冒頭、豪華客船アントニア・グラーザ号の乗客たちはデッキで踊っている最中にワイヤーが通過し、一気呵成に真っ二つにされてしまうところから始まる。ジュリアナ・マルグリーズ演じるエップスや、ガブリエル・バーン演じるマーフィーを初めとする面々はサルベージによって生計を立てているのだが、一仕事終えた後でバーで寛いでいると、デズモンド・ハリントン演じるフェリマンから、上述の豪華客船の話を聞くので、悩んだ末に行ったところ、確かにそのゴーストシップが漂っている。かくして船内を探索しているうちに、幻覚かと思しき少女を見たりするので、この船は不気味だということになってさっさとやることをやろうと思っていたのだが、金塊が見つかって面々は大喜びする。だが、それを持ち運ぼうとしたところ、彼らの乗ってきた船が悪霊の仕業によってプロパンガスの栓が緩んでおり、ガスが充満した状態でエンジンをかけたものだから大爆発してしまう。為す術もなく彼らは幽霊船に取り残されることになるのだが、なんとか修理をして潮流を利用しようと思っていたものの、ひとり、またひとりと殺されていく。エップスは少女の霊を追い、その結果フェリマンが悪霊として船内に魂を留め、サタンの使いとしての役目を果たそうとしていることを知る。エップスはC4によって船を爆破し、海を漂っているところ、別の船に助けられ病院に収容されるものの、入れ違いに船に乗り込む面々にはどこかで見た姿があった。

 非常に逆説的ではあるのだが、この映画を観ていると、どうして最近の映画についてやや躊躇いがちになってしまうのか、その理由が分かったような気がした。この映画は、例えば冒頭エップスたちの仕事を説明するときに、経緯を説明していく。そしてちょっとした危機(トラブル)を示すことで、彼らが決してレベルが低いわけではなく、一定以上の実力があることがさりげなく示される。また、その後のフェリマンの誘いに至るまでの描写もさりげなくもストーリー上の必然性が示されている。

 ところが、これは現在という時間において観る場合は、やや古典的な位置に属している、というのが私見である。最近のストーリー展開においては、序盤の立ち上がりについて、かなり圧縮している傾向にあると私は思っていて、そのストーリーの立ち上がりの圧縮は結果的に「文脈」を知悉しているかどうかによって、理解度がかなり異なってしまっている。また、突然ある状況に置かれる、また世界は説明抜きにそのようにある、といったことも多い。

 例として適切か分からないのだが、例えば『ジョン・ウィック』(2014年)の立ち上がりなどはそういったものかもしれない。妻の死と、妻の残した犬といった要素というところは後の復讐の動機づけとなっているが、明確なストーリーとして描かれるというよりはフラッシュバック的に短いカットの積み上げでのみ説明される。それは映画の主眼がそこにはなかったのだ、と言えばそこまでなのだが、結果的には圧縮されている。そしてこの圧縮自体はまだ分かりやすい方なのだ(圧縮それ自体が悪いわけではない)。

 同時代的にこの映画『ゴーストシップ』を観たとき、かなり物足りなかった予感があるものの、現在観たときに、私はかなり楽しめた。ある種の秩序がそこにはあり、また文法がそこでは使われていて、それはなぜだかとても居心地がよかったのだから。