Outside

Something is better than nothing.

犬の環世界

Dog

 昔、大学の講義の中で、別に生物について扱っているわけでもなかったのだけれども、やや唐突に、教授の思索の赴くままだったのでそういうこともよくあったのだけれども、ユクスキュルの『生物から見た世界』について触れたことがあって、その講義の後、書店に行ってすぐに買って、読んだことがある。随分と前のことになるので、内容の詳細については覚えてはいないのだが、けれども例えば環境といったものとは異なり、生物たちそれぞれの環世界があるのだ、といったことや、フッサール現象学というものについてはまったく理解できなかったのであれなのだけれど、こういうところに繋がるのかしら、みたいなことを考えてはいた。知覚標識と作用標識のさまざまな果たし合いによって生じる環世界については、例えば犬にしてみれば街中にある電柱や生垣といったものは、明らかにトイレやその延長にあるマーキング可能な縄張り程度のものでしかなく、そこに工業的な意味やガーデニング的な美学を持ち込むのは、人間の――とりわけ近代的人間の――環世界だろう。

 そういうものだ、と思おうとすればそうなのだけれども、それでも通勤のたびに疑問に思いつつも、上記に書き連ねたようなことをつらつらと考えてしまうのは、「ここはペットのトイレじゃありません」といった貼り紙についてであり、たしかにカーブミラーの鉄棒が刺さった地面に、歴年、犬が小便を引っかけたことによる劣化の促進があり、その結果として倒壊があったと記憶しているので、まったく人間的無害だとは思わないのだけれども、それでも犬にとってはそこは紛れもなく「トイレ」でしかない環世界が広がっている。

 だからといって犬を始めとしたペットを飼うなというのは無理な相談であるし、また飼い主のマナーの問題といえば聞こえはいいのだが、都市生活を営んでいるものとすれば、飼い主の環世界もまたそこは「(ペットの)トイレ」なのである。大便ならばともかくとして、小便までをさせないというのは本質的には無理な相談であろうと思う。

「管理」する責任が人間にあると言えばそうなのだが、その管理はあくまで人間の環世界の中に犬を始めとしたペットを閉じ込めようとする営為に他ならない。無論、犬を始めとしたペットが人間の環世界に合わせるのが飼われるものの筋というものなのかもしれないのだが、まあそれは冗談であるし、実際、犬については品種改良されて人間の環世界に即するように(遺伝子レベルで)されてきた。

 まとまりがないのだが、結論が出ないからで、そういったことを通勤のたびに考え込んでしまう。