Outside

Something is better than nothing.

映画を観なかった日々について

Movie camera "Quartz"

 一年間という時間を考えたときに、そこに映画が含まれる時間というのはごく僅かなのだろうか、ということを考える。例えば1本120分の映画を百本観たとして、それでも12,000分という時間にしかならない。この時間はどういう時間かと言えば、おおよそ8日間という時間になる。この時間の多寡をどう感じるかは、個々人の価値観によるだろう。

 とはいえ、この一年間は仕事の忙しさにかまけて、ほとんど映画を観なかった。特に年の後半は皆無といっていい按配であるのだし、何か映像を観ていてもつまらなく感じてしまうことが多かった。Netflixを始めとしたサブスクリプションの映像サービスを複数契約している私は、ときおり流れてくる映画という分類をされた映像作品を多少観ては、どうしてもつまらないと思ってしまうのだった。
 二時間という時間を画面の前でただ座って観続けるという経験が、どうにも耐えがたい瞬間がある。それはオープニングの映像を観ているまさにその瞬間から映画が始まるといったときに、その映画の立ち上がりそのものについて、観続ける意欲が失せてしまうといった有様だった。
 端的に言えば感性の減退だと私は私自身を分析するのだが、それは何度か観る機会を得た最新の劇場公開映画でさえ、CGの使い方や俳優、演出のされ方にどうにもついていけないと思わざるを得ないのだった。
 それが何を意味するのか、ということについて、おそらく私はあるパースペクティブを欠いてしまった、と結論している。映画を観るにあたって、予断をもって観ることが正しいことだとは思わないのだが、映画を観る前に私たちが作品の現前を成立させている文脈(映画的な文法やテクスチャー等)が、いつの瞬間かずれてしまった、と思うのだった。
 で、それが何に起因するのかと言うと、あまり自信はないのだが、「ドラマ」によるのだと今のところ私は考えている。この「ドラマ」というのは、海外ドラマ等のときに使われるドラマなのだけれども、どうにもこの存在を考えたときに、私は並行して映画がつまらないと感じるようになってしまった。

 それは画面に対する集中力なのかもしれない。そう言ってしまえば、例えば映画についての画面サイズや早送りや巻き戻しといった技術的な飛躍による視聴環境の変化を云々した多くの言論を思い出しもするのだけれども、そういった物言いをどこか軽蔑していた私が、今更ながらに画面の集中力の減退をドラマの存在に帰着させることについて、やはり躊躇いを覚えざるをえないのだった。

 奇妙なことに映画を観ない間は、不思議と映像全般に対する興味が失せてしまい、例えばテレビ番組もほとんど観なかったし、アニメも観なかった。本来は音楽がそうあるべきだとは思いつつも、BGM的な使い方でアニメを流していたこともあったのだけれども、これはもうどこか腐ってきたような気もするのだった。