Outside

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水銀の記憶

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

 

喚起

 池澤夏樹個人編集の河出書房新社から出ている世界文学全集の中に、石牟礼道子の『苦界浄土』という作品があるのを目にしてから、それが日本文学編ではなく、世界文学編に入っているのはどうしてなのだろう、そして私はこの作者の作品を一度も読んだことがない、ということについて、結構長い間気にかかっていた。たぶんこれが出たのが学生時代くらいだったから、もう五年以上は気になってから時間が経っている、ということになる。

 私は予断と、それに基づく偏見が酷いタイプの人間なので、例によってネットで「石牟礼道子」と検索して、この『苦界浄土』が水俣病について扱っている、という予備知識を知るに至り、少し躊躇した。ルポルタージュ文学を受け付けないというのではないし、別に水俣病自体に偏見を持っているわけではない。ただ、この水俣病について扱った小説、というところに躊躇いがあった。

 はっきり言えば、重たそうだった、ということである。

 仕事の合間に読む本としては、知的快楽というよりは社会的関心という観点から読まれる本である印象があり、おいそれと興味本位で読むべきではないと思っていた。とはいえ、最近は社会的関心が以前よりは大きくなってきて、現在はほとんど停滞のような進捗ではあるものの、第二次大戦後の「復員」と、後藤明生に端を発した引き揚げ文学について興味を持つようになったのだから、そこに水俣病関連の関心を引き込んでも差し支えはなかろうという判断があった。

 そんなこんなで相当な予断と偏見があった、ということになる。ただ実際読んでみると、襟を正し、正座して読むような本ではなかった。かといってゲラゲラと笑えるものでもない。私がとりわけ感心したのは焼酎を飲み、魚を食べる合間に感じる「栄華」という言葉だった。作中の彼らが語る「栄華」には、水俣病に、あるいは恒常的な貧困に人間性を削られつつもなお残る、煌びやかなものがあった。たしかにそこには「栄華」があるように、私には思えた。

 描かれているのは極限状態の人間性の煌めきではない。むしろ、極限状態の連続による疲弊と、その疲弊の中で浮かび上がる一瞬の中にある永遠である。熊本弁の語りの中で、私は読むのに非常に苦労したところもあったが、語られる内容の美しい瞬間というのは、「栄華」と呼ぶより他はないものだろう。だからこそ、逆説的に非人間的な産業機構の中で押しつぶされていく人々の呪いの声が、強く印象に残る。一瞬の最中にある永遠の美しさは、例えば後妻として嫁に入ったばかりの妻を襲う水俣病と、それを献身的に支えようとする夫のものでもあるし、極限の連続は彼らを疲弊させ、その後に二人は離縁してしまう。

記憶

 私は水俣病については一般的な内容しか知らないのだけれども、しかし辛うじて現代にまで継承されているこの公害病の一つは、メチル水銀という言葉もまた記憶の流れに留まっている。

 以前にテレビを観ているときに、アメリカの街で、水銀の綺麗さに心を奪われた結果、それを素手で触ったり、体につけたりして楽しんだ後に病に冒されるというものがあった。そのとき、どうして彼らには水銀が危険だという知識がなかったのだろうと子供ながらに思っていたのだが、では一体私の記憶に水銀があるのはどうしてだろう、と思うのだった。

 たぶんそれは体温計の記憶なのだ、と私は水俣病の記憶も含めて思う。水俣病について学んだとき、そこにある水銀は、あくまで教科書の字面の中にある水銀でしかなく、現実の危険が及ぶかもしれないものとしては認識していなかった。

 私はよく風邪を引く子供で、そうであるがゆえに体温計で熱を測ることはままあった。そのときによく母に叱られたものだった。体温計の中に水銀があるから気をつけなさいよ、と。

 私の家にあった体温計は、人間の熱によって水銀が熱膨張し、あらかじめプリントされた熱度計にまで達したところをもってして人間の熱を測るというものだが、例えば一度計り終えた水銀式体温計は、ぶんぶんと振ることによって熱膨張によって上昇した目盛りが下がる。だから、日常的な動作として体温計をぶんぶんと振っていて、その体温計が何かの拍子にぶつけて割れてしまったとしたら、中に入っている水銀は下手をすると人の体にかかってしまう恐れがある。そうでなくても密閉された室内であれば気化した水銀を吸引してしまう恐れがあるわけだが、母はそのことを懸念していたのだ。

 子供である私が、さらに小さかった頃、私は体温計を自分で振り回すということが禁止されていたように思う。それは幼い私が、辺り構わず水銀入りの体温計を振り回した結果、何かにぶつけて割れてしまうことを防ぐからで、水銀の危険というのはある意味で大げさかもしれないが、日常的なものではあった。

 今では水銀式の体温計はほとんど見なくなった。私はいつか見たアメリカの街のような出来事が起こるのかもしれない、と少し心配になった。たしかに水銀はコロコロと丸い球体となって動くし、それは切り傷からぽつりと浮かび上がった血のようでいて、どこか妙な関心を見ている私たちに湧き起こさせる。それに色は当然銀色であるのだから、触るくらいは大丈夫だ、という気が何となくしてしまうのだろう。