Outside

Something is better than nothing.

雀と鼠

 本当かどうかは知らないのだが、英語圏で雀のことを「Flying rats」と言うという話を誰かから聞いて以来、私は雀の姿を見かけるたびに、「あ、Flying rat[空飛ぶ鼠]だ」と思うようになってしまうどころか言ってしまうようになり、隣に歩く妻に苦笑されているのだが、事の真偽はともかくとして、たしかに雀のチュンチュン動き回る様はどこか鼠に似ていなくもない。だから、というわけでもないのだが、雀のことについては好意を覚えていたわけでも敵意を覚えていたわけでもなかったにもかかわらず、その言葉を聞いてからというもの、雀に対してどことなく鼠のようなイメージをもって見るようになった。例えば通勤途中に地面に落ちた何かを啄む姿を見かけて、鼠が食べ物をかすめ取るかのような印象を受けるのであり、今日見かけた雀も(珍しく一羽だけだったと書こうとしたのだが、「一匹」と書きたい誘惑に駆られてしまったことを付け加えておく)暗がりからまるで鼠のように出現してきて、もちろん雀の方はそんな意図はなかったのだろうが(突然の出現をする側というものは往々にして何も意図してはいないものだ)、私の方はといえば、鼠が出てきたかのように驚いてしまった。それは「悪さ」をしているかのような印象が、暗がり、突然の出現といったイメージから湧き上がってきたのだろう。
 雀と鼠。鳥類とほ乳類という違いさえありながら、それぞれの持つイメージは似通っているようにも思える。しかし鼠は実物の印象が悪すぎる所為なのか、キャラクターの中の鼠というものはどこか肯定的に描かれているかのような感じがすることはたしかで、私の鼠の最古のイメージと言えばミッキーマウス……ではなく、『トムとジェリー』のジェリーなのだった。語る必要もないほどに雄弁にすばしっこく動き回り、トムを翻弄しながら、穴の空いたチーズを食べるジェリーの口元が今でもありありと思い描けるくらいに鮮烈な鼠のイメージを私に与えていて、「マウス」とわざわざ鼠の名前を冠したミッキーよりも鼠らしくありながら(鼠らしくあるからこそ?)、ジェリーは見る者を魅了する。またキャラクターではないが、鼠はマウスとして日常的に私たちの生活に溶け込んでおり、今ではスマートフォンに取って代わられているかもしれないが、パソコンの傍らにはだいたいそれは存在している。どういう意図があって名付けたかは私は知らないのだけれども、しかし各種さまざまな形態をしたマウスはそれを握る者の「手」となって行動を共にしている。
 そういえば私は人生の中で動物園の鼠たちやハムスターなどのペットを除いて、三回しか鼠をはっきりと見たことがない。
 一回目に見たのは実家だった。台所の方でドタバタと物音がし、さらに人目にはつかない箇所に穴が空いているらしいということが分かった結果、鼠が家に侵入していることが判明したのだった。母は鼠が嫌うというハーブの強烈な臭いのするスプレーを買ってきた。それを鼠のいるらしき方向に振りまいて、家中がハーブの爽快を通り越して鼻に染みる臭いに包まれて、鼠が何度か床を駆け巡っていった。私と母は狂乱に包まれた。二人ではどうにもならないということで、父に助けを求め、ねずみ取り機によって無事に鼠を捕まえた。粘着テープに小さな足と長い尻尾を絡め取られてチュウチュウと鳴く鼠を、父はさすがに殺すわけにもいかず(かなり大きかったので、どんな方法を取るにせよ死骸の処理に血生臭い想像が及ぶのだった)、家の近くにあるドブに鼠を放してやったのだった。
 二回目に見たのは早朝の渋谷だった。『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『ホット・ファズ』の監督であるエドガー・ライトの(当時の)新作『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』を観るために、知り合いと一緒に渋谷に行った日のことだった。監督のそれまでの作品を上映し、最後に新作が上映されるというオールナイトイベントの帰り、マクドナルドに立ち寄って腹ごしらえをし、そこで始発を待っていた。私はそのとき初めて早朝の渋谷を経験したのだが、店内はそれなりに混み合っており、徹夜明けの弛緩した空気の漂う店内で、つい先ほど観てきた映画の観想を言い合っている中、窓ガラスの向こう側で鼠が渋谷の街を走っていた。鼠はすぐに茂みの中に駆け込んで私たちの視界からは消えてしまったのだが、その鼠は田舎で見た鼠とは違ってでっぷりと太っており、さらにはかなり汚れていた。地べたに這いつくばって、という言葉がイメージではなく事実としてあるのだろう実態が、ありありと表れているのだった。
 三回目に見たのは出勤時のことだった。その日は雨が降っていた。私は天気が悪いと低気圧のため頭痛になるので朝から不機嫌だったのだが、建物に入ろうとしたところ、その横にあるビルとビルとの間の隙間に鼠が飛び込んで、一気に駆け抜けていった。私は口を開けたまま、立ち止まってしまった。一瞬、何を見たのか分からなかったのだ。しかし、ふたたび歩き出して傘をしまって建物に入ると、あれは鼠で、しかも今入ったこの建物の中から出てきたのではないかということに気づいたのだった。不機嫌も忘れて、私は濡れ鼠を目にしたことに新鮮な驚きを感じていた。
 この三回が、視覚的にはっきりと鼠を認識したケースだが、気配としてならば新宿で映画を観た帰り道、妻と一緒に信号待ちをしているときに感じたことがある。これは隣にあった茂みから感じられるガサゴソという音と共に発せられる気配で、実際に鼠かどうか確認しなかったが、虫などではなかったように思う。
 鼠が文字通り地べたを這いつくばって(時には地べたを通り越して地下に潜って)生きているのに対し、空を飛ぶ鳥類の一員である雀は、同じく地面に落ちた何かを口に入れるというところまでは一緒なのかもしれないが、人が近づけば手に届かぬ空中へ逃げる点で、鼠のイメージを断絶している。あの軽やかな飛翔は鳥類の油分を含んだ羽根と相まって、鼠の這いつくばる姿と対照的に映ることになる。思えば雀をモチーフにしたキャラクターというものはすぐには思いつかないわけで、これは飛翔と羽根によって人の手を離れているから、ということになるのだろうか。