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Outside

Something is better than nothing.

『アイアムアヒーロー』(2016年)

映画

  佐藤信介の『アイアムアヒーロー』を観る。原作は数巻読んだことがある。

梗概

 大泉洋演じる鈴木英雄は冴えないマンガのアシスタントで、日々妄想を垂れ流しており、ぶつぶつと何かを呟いている。マンガもパッとせず、持ち込んでも同期との差が目に見えるばかり。彼女とも三十過ぎてそういう生活をしていることを罵られ、家を追い出される始末だったが、ある日、後にZQNと呼称されることになるゾンビが蔓延し、都内は大パニックに陥る。道中で出会った有村架純演じる早狩比呂美とともに、2ちゃんねる(的な掲示板)で見た富士山は安全という情報を元に富士山へ向かうこととする。が、途中で比呂美が赤ちゃんを背負ったときに噛まれた傷を元にしてZQN化。半ZQN状態のまま、身体能力が強化されたもののほとんど喋らず、あまり動けなくなってしまった彼女とともに、富士アウトレットパークに行き着く。そこで生活するコミュニティに拾われるも、権力争いに巻き込まれ、その過程で長澤まさみ演じるヤブこと小田つぐみと仲良くなる。ライフルをぶっ放してZQNたちを抹殺し、そこを脱出。

感想

 某所でゾンビ映画の傑作という評を見かけたので、興味を持ち視聴した。ゾンビ映画がことさら好きというわけではないのだが、けれどもロメロのゾンビ映画は大好きといえば大好きだし、やっぱりゾンビっていいよなあとかも思ったりもするわけなので、これは観なければならないと思った次第である。

 で、感想としては大傑作

 まさか邦画でゾンビ映画の傑作を視聴することができるとは思わなかった。

 要所要所でゾンビ映画的な勘所を絶妙に押さえている。まずここがポイントである。ゾンビ映画ゾンビ映画たらしめる要素はいくつかあるのだが、ロメロの『ゾンビ』(1978年)に立ち返るならば物質的な消費文明に対するメッセージ性があるわけで、この『アイアムアヒーロー』にも同様のメッセージ性は仮託されている。

 次に走らない点。ゾンビが走るかどうか、というところは非常に微妙な線引きになるのだが、例えば映画『バイオハザード』(2002年)では走らなかったゾンビが『バイオハザードII アポカリプス』(2004年)くらいから走り始めるとなんだかげんなりする。

 パニック要素とホラー描写のために機動性を与えられるゾンビを観ると、なんだか虚しくなってくるのも事実で、『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)はまあまあ好きなのだが、けれども走るゾンビはどことなくあまりに現代的すぎる。

 と言いつつも、『アイアムアヒーロー』に走るゾンビは登場する。けれども、そのゾンビのあり方が秀逸で、私はこの扱いにえらく感心した。なるほど、こういう説得性を持たせつつ、「走るゾンビ」という現代ゾンビをうまく使うのか、と。

 笑えるグロテスクさ、というのもやはりポイントになってきて、個人的には『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)の嫌みったらしい男デービッドがパブの窓から引きずり出されて内臓がぼろぼろとこぼれ落ちるシーンなんかは笑えて好きなのだし、正統派ゾンビ映画のロメロの『死霊のえじき』(1985年)なんかの暴力描写は大好物なのである。ああいう妙な安っぽさと、変なグロテスクさが同居した暴力描写こそ、ゾンビ映画ゾンビ映画らしいところではあるまいか。

アイアムアヒーロー』にもそういう要素はある。塚地武雅演じる同僚の三谷は、ZQN騒動が発生したあとに漫画家をバットで撲殺しているのだが、そのシーンの暴力性は笑えないサイコっぽさはありつつも、やっぱり笑える。結末部における英雄の散弾銃発射シーンにおける「ぐしゃ」系統の音の使い方もよかったと思う。もちろん富士アウトレットパークで、なぜか武器として扱われているエアガンの滑稽さも忘れてはならない。

 どうでもいいことを書き連ねてしまったのだが、この作品は世界で戦えるゾンビ映画だ。つまり世界ゾンビ映画の枠組みの中で観るべき作品であって、一邦画に留めておくのはもったいない。未回収の伏線もあるのだし、続編が作られることを期待したい。