Outside

Something is better than nothing.

『ゾンビランド:ダブルタップ』(2019年)

 ルーベン・フライシャーの『ゾンビランド:ダブルタップ』を観る。

 前作から十年後、ウディ・ハレルソン演じるタラハシージェシー・アイゼンバーグ演じるコロンバス、エマ・ストーン演じるウィチタ、アビゲイル・ブレスリン演じるリトルロックは、ホワイトハウスがあった場所に居を構えることになり、疑似的な家族を構成して過ごしていた。そこでコロンバスとウィチタは恋人関係になり、ある日コロンバスが結婚を申し込むことになるのだが、ウィチアは結婚後にすることは唯一離婚だけだと関係性の終わりを悟って、ホワイトハウスを出ることになる。コロンバスは失恋に数ヶ月も苛まれることになるが、ゾンビ狩りのためにショッピングモールに出かけたところ、ゾーイ・ドゥイッチ演じるマディソンと出会い、ずっと冷凍庫に隠れ住んでいたため男日照りのため即座にコロンバスとベッドを共にする。しかし、そこでウィチタが帰ってくる。リトルロックはパートナーを欲していたため、いつまでも小娘扱いするタラハシーに嫌気が差していたと告げられ、アヴァン・ジョーギア演じるバークレーというヒッピー然とした優男と共に車で走り去ってしまったため、一緒に探しに出かけることになる。マディソンも含めてリトルロックを探す旅が始まるが、途中で強化されたゾンビが登場する。感染が進み、従来よりも凶暴になっている。その襲撃の最中に、マディソンが感染した様子を見せたため、責任を取ってコロンバスがとどめを刺す。旅は続き、エルヴィス・プレスリーの縁の地グレイスランドに向かう。その館で、ロザリオ・ドーソン演じるネバダリトルロックの居場所を聞くが、訪れたものの別の場所バビロンへ向かったことを知らされる。プレスリーをきっかけにネバダタラハシーはいい感じの仲になるものの、翌日にはタラハシーとコロンバスにそっくりなルーク・ウィルソン演じるアルバカーキと、トーマス・ミドルディッチ演じるフラッグスタッフと出会い、意気投合するものの強化されたゾンビとの戦いの結果、彼らがゾンビ化してしまう。なんとか撃退し、リトルロックの後を追いかけバビロンに向かう途中で、マディソンと再会する。彼女はアレルギー反応を示していただけだったし、コロンバスもとどめを刺さなかったのだった。バビロンに辿り着くものの、そこは非暴力非武装の地域で、ヒッピー然とした連中が仲良くやっているところだった。リトルロックはそこでバークレーを始めとした面々と暮らすことに決め、タラハシーたちから巣立つことに決める。タラハシーは車を走らせ、別のところに向かうのだが、しかし花火を打ち上げるバビロンに大量のゾンビ集団が向かっていることに気づき、バビロンに戻ることを決める。武器はまったくないため、掻き集めるだけ集めたもので武装し、戦うことになるのだった。燃料を爆破させ、残ったゾンビを撃退するつもりが、あまり効果が上がらず、周囲をゾンビに囲まれたところをネバダが現れ助けられる。バビロンの最上階までゾンビを誘導し、人間たちでバリケードを作って道を作り、そこをタラハシーが最前線で走り抜けてダイブすることで、ゾンビを最上階から墜落させる。タラハシーは天辺から吊るされたフックに捕まって、事なきを得るのだった。

 基本的なテンションは前作『ゾンビランド』(2009年)と同じだと思われるのだが、関係性やキャラクターについては一歩も前進しておらず、ただコロンバスとウィチタの関係性だけが「結婚」というステータスを巡って揺れ動くことになり、そしてこの映画のすべての運動が基本的にはこの「結婚」を巡る揺れ動きに端を発することになる。もちろん結婚の後にあるものは離婚だけではないのだが、しかしウィチタの断言は反論を許さないことになる。

 エマ・ストーン万歳、と一時期述べていたが、やはり今作もそう言うに相応しい美しさをエマ・ストーンは湛えており、この映画を通して素晴らしかったことは事実なのが、どうにも観ていてテンションがついていけないときがあったことは事実で、そのある種のマンネリのためにさまざまな新しいキャラクターが登場することになり、マディソンといういわゆる「ビッチ」なキャラクターが導入されることになるわけなのだが、いまいち乗り切れなかった。

 本来ならクライマックスとも言える、ネバダが援軍としてやってきてからのゾンビ大虐殺も、状況の凄さの割には、といった印象を覚える。察するに、前作が疑似家族を得るまでの過程という実に脚本上、動かしやすい題材だったことに対し、今作がポストアポカリプス的な「停滞」を前提とし、疑似家族の解散から再構成というテーマを組み込もうとしたときに、いまいち材料(前作のキャラクターとの関係性等)との絡み方の相性が悪かったのではないか、とも思うのである。

 それはウディ・ハレルソンに対応するアルバカーキの登場にも現れているようにも感じられる。どうにもタラハシーが負ける瞬間、圧倒される瞬間、そしてその絵というものが浮かび上がらず、そのために疑似的なキャラクター、鏡としてアルバカーキフラッグスタッフが呼び出されたのではないか。