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SmartNews ATLAS Program 2「社会の子ども」vol.1

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経緯

 先日(2016年12月15日)、スマートニュースの実施する社会貢献プログラム「SmartNews ATLAS Program 2」のイベントに行ってきた。

 まず動機から書いておくと、Twitter望月優大(敬称略、以下同)の記事に興味を持ち、本人をフォロー。するとスマートニュースの社員であるらしいことが分かり、今回のイベントについてツイートしていた。たまたま保坂和志の『考える練習』を読んでいると、そこに湯浅誠についての言及があり興味を持つ。ATLASについてサイトをチェックすると、湯浅誠の名前があった。せっかくの機会なので、行ってみようと思い立ち、参加することになったのである。

概要

 プログラムの内容は映画『さとにきたらええやん』(2016年)という大阪の西成区にある「こどもの里」という憩いの場を舞台にしたドキュメンタリーを鑑賞し、その後、湯浅誠・徳谷柿次郎・小澤いぶき・藤田順子の4名(と司会として前述の望月優大)のトークショーを聞くというものだった。

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西成と子どもの関係

 この『さとにきたらええやん』は、主に3人の子どもについて撮られた映画である。正直、西成という場所はネット上で半ば面白半分で触れられていたので、その域を出ない知識しかなかった。そのため視聴するまでは「西成」と「子ども」という繋がりが最初は分からなかったが、ここで描かれているようにかなり厳しい労働条件で雇われているであろう(劇中、冒頭部分を除きほとんど不在の)「父親」と(主にこちらに焦点が当たっていた)「母親」がいる以上、「子ども」という存在が生じないわけがない。

 同様にして登場するホームレスたちの存在が、この映画にある彩りを与えていることは事実で、観ていると衰えつつある日本という国の縮図のようにも思えてくるのだった。

「こどもの里」という場所

 この映画は「こどもの里」に預けられた子どもたちを主に撮影し、そこから関係する親や社会について描かれたものである。

 この「こどもの里」という場所はデメキンと呼ばれる女性が運営しており、4つの機能がある。(年齢制限のない)学童保育、緊急宿泊先、里親、乳幼児のサポートだ。

 監督はそこでボランティアとして、撮影にまったく関係なく5年間ほど関わったあと、撮影に2年ほど費やしてこの映画ができあがったそうだ。高度成長期には日雇い労働者たちの育児の場として、現在は多様な労働形態や家庭環境の中で育児をサポートする場として機能している。

 映画はおおむね3人の子どもたちを中心に追っていく。

 一人は小学校に上がる前の男の子。彼の母親はDVをしそうになっており、自分でもそれに葛藤している。

 一人は中学生の男の子。軽度の知的障害があり、また家庭環境も複雑で、学校生活も障害が原因で虐められており、うまくいっていない。

 一人は高校生の女の子。母親が生活保護を受けており、また一緒に暮らせない状態にあるため「こどもの里」で暮らしている。

 そして西成という場所柄か、何度も路上生活者たちがカメラに収められている。彼らへの支援を子どもたちが行うシーンも出てくる。夜中に台車を引いて、ホームレスに食べ物や毛布を渡し、支援先が書かれたペーパーを渡していく。

 西成でのイベントも描かれ、ローカルヒーロー的な存在として絶大な人気のあるラッパーがライブをしている様が描かれ、子どもたちが熱狂している。運動会のシーンでは「おっちゃん」と呼称される、おそらくは路上生活者たちがそれに入り込んで、ワンカップ酒片手に運動会を作り上げている。

 地域との連帯と、親としての葛藤と、子ども自身の成長が描かれ、そこに「こどもの里」を運営するデメキンを初めとした職員のインタビューなども加わった構成になっている。 

子どもという荷物

 ブレイディみかこの『This is Japan』を思い返したりもするこの映画は、「子ども」という存在の楽園的な自由さを存分に描きつつ、背景にある親と子の関係の暗さを描くことも忘れない。

 ここで登場する多くの親(母親)たちは日中は何かしらの労働をしているのだろうが、それは夜遅くまで続く厳しいものであろうと推察する。DVをしそうになると述懐する母親の表情は疲れているが、容赦なく子どもはわがままを言う。労働と育児という対立関係がかなりはっきりと現れており、後のトークショーで小澤いぶきがたしか述べていた「母と子」の一対一の関係性が逃げ場を失わせている。

 幸いにしてそこに「こどもの里」が入ってくるために、ワンクッション置かれることになる。けれども、ここで容赦なく描かれているのは「子どもは重荷なのだ」ということだろうと思う。

 子どもを肯定的にのみ捉えることは、ここでDVをしそうになりかけていた母親にとっては苦痛でしかない。子どもは疲れた親にとって、容赦なく自分の欲求を主張する存在であり、「帰ろう」と言っているにもかかわらず「帰りたくない」と愚図つく存在であり、それでも無理に家に連れて帰ってもひたすらわがままを言い、結局は「こどもの里」に預けに戻るような存在である。 

特別支援

 中学生の男の子についても触れておきたい。彼の家庭環境は(たしか)4人兄弟で、父親がDVをした結果、警察から接近禁止令が出ており、母親と兄弟とで生活している。

 彼はおそらく軽度の知的障害を抱えているのだが、劇中で彼は高校の進路について触れている。自分としては「普通」の高校に行きたいのだが、担任は「特別支援」しか勧めない、と。実際、彼はそこへ進学することになるのだが、「特別支援」という言葉がかなり重くのしかかった。

 彼自身は「こどもの里」では自由奔放に明るく、いかにも中学生らしく振る舞っているのだが、その振る舞い方に影を落とす瞬間がいくつもあって、本人も述べていたがその障害のことで学校生活では虐められていたりしたからだろう。

 幸いにして転校してからはそういったことがなかった模様で、そのことは卒業式のスピーチにて触れられている。

 複雑さを抱える

 また、高校3年生の女の子が就職する様も描かれているのだが、彼女には生活保護を受けている母親がおり、おそらくは精神的に何らかの疾患を抱えているのではないかと推察できる。そういった経緯もおそらくはあって、彼女は「こどもの里」で暮らしているようだが、彼女の顔は明るく、元気いっぱいで、こちらは彼女を観ていると安心できる。

 けれども、ある事件が起きる。「こどもの里」のリーダーであるデメキンが、彼女の預貯金が減っていることに気づく。デメキンは彼女に問い質す。けれども彼女は答えない。

 デメキンは彼女が自分の母親のためにお金を使った(あるいは通帳・カード等を渡した)ことを知っている。デメキンは彼女のために叱るが、同時に彼女の「優しさ」についても触れている――「お母さんのため」という「優しさ」に。

 非常に微妙な関係の母子であり、彼女は普段はそのことを隠しているかのように明るいのだが、彼女の触れられたくない部分、言語化できないものとして母子関係があり、やがて就職して「こどもの里」を去っていく彼女にとって、就職が決まったにしてもバラ色の未来が待っているわけではないことを暗示している。

ヒップホップ

 この映画のテーマソングはSHINGO★西成の「心とふところが寒いときこそ胸をはれ」という曲なのだが、映画の中でも描かれているし、トークショーの中で徳谷も述べていたのだが、このラッパーはローカルヒーローなのだ。

 圧倒的なカリスマを持っていて、劇中の中学生の男の子もライブ中に本当に目を輝かせていて、日本におけるヒップホップについて「リアルさ」がないという批判があったような気もするのだが、これは圧倒的に「リアル」ではないのか、という気もする。

 実際、曲がとてもいい。

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トークショー

 映画のあとにはトークショーがあったのだが、いくつか興味深い話を聞けた。けれども、個人的にはいちばん印象に残っているのは湯浅誠のある言葉で、それは社会貢献等をするにあたってエールをくださいという会場からの投げかけに対して、彼はこう語った。

「(ある問題に)気づいたら、その責任を取らなければならない」

 この言葉は重い。「問題」と認識した以上は、それを問題化した思考がそこにはあるわけであり、そうである以上、何らかの形で関わらなければならないという風に理解もした。

 また社会貢献等の方法について聞かれた質問に対しての、「いるだけ支援」というものが印象的だった。人にとってきっかけや気づきになるポイントというものは固定化されたものではないため、どんな支援の方法でも、いるだけでも、そのピントが合った人にとっては支援になるのだ、といったもの。

全体を通しての感想

 まず選ばれた映画が本当によかった。傑作だと思う。その上で、トークショーがあり、それもまた各人の持ち味があってよかったのだが、いかんせん時間が短かった。

 社会の子どもというテーマはけっこう考えることが多く、まだ自分には子どもはいないのだけれども、それでも例えば今住んでいるところのすぐ近くには幼稚園があったり、子どもを持つ親と一緒に仕事をすることもあったりする。

 一時期は子どもの育児時間との兼ね合いで仕事に支障を来す方々と仕事とのバランスについて、労働組合の執行委員という立場からいろいろと上司と調整を図ったりしたこともあった。

 今思うと、かなり偏見があったとも思うのだが、当時はそのバランスを何とか保てないかと腐心した覚えがあり、上司ともよく相談したものだった。

 前述したが、経済という観点のみで考えると、子どもは重荷にしかならない。けれども人は経済のみで生きてはいない。しかし経済がなければ生きてもいけない。その感覚というものは、極端さでは解決できない。 けれども社会を見渡せば、子どもの非論理性、非経済性に対して野放図な怒りを抱える人が増えているような印象を受ける。

 そして私自身だって、子どもを子どもとして完全に受け入れられるほどの度量はない。正直言って、苦手だ。

 その折り合いをつけること、それについて考え続けること。そうしないことには、この子どもという重荷を受け入れることはできないと思う。

 映画を観ていて、子どもという存在は自分自身の自我の裏返しだと思った。自分の嫌なところ、面倒臭いところ、どうにもならないところが描かれている。けれども、忘れてはならないのは同時に彼らは「こどもの里」で、本当に楽園にいるかのようにのびのびと自由自在に遊んでいた。あれもまた真実なのだ。

 あと、湯浅誠は寡聞にしてこのイベントがあるまで存在を知らなかったのだが、実際に話している様を見ていると、この人のカリスマ性は半端なく、言葉に込められた説得力と力は半端なかった。今、彼の本を読んでいるのだが、今後も動向に注目していきたいと思う。

ツイート

 先にTwitterでいくつか感想を書いているので転載して終わりにする。

 

(2016年12月17日、「『こどもの里』という場所」を追加。構成を変更。誤字修正。敬称略の注意書き挿入)
(2017年1月14日、タイトルを「社会の子ども」から「SmartNews ATLAS Program 2『社会の子ども』vol.1」へ変更)