Outside

Something is better than nothing.

あるいは、「自分で考える」こと

brain 2

 仕事で人と話していると、よく「自分(の頭)で考えないとね」といったようなことを言うケースに出くわす。言葉尻だけ捉えればまさにそうなのだが、しかしその内実は人によってかなりベクトルの異なることを言うケースが多く、それらに出くわすにつれて私は「自分で考える」ことは、果たして本当に良いことなのだろうか?と考えることが多くなった。

 もちろん大前提として自分で考えることは良いことである、と私自身も思う。各々が自分で何をどう考えようが自由であるし、その自由の責任と範囲の中で、何を考えたって差し支えはない。しかし、ここで言う「自分で考える」ことは、往々にしてさまざまな社会的な規範を前提にしていたり、あるいは上席者の意向を尊重しなければならなかったり、いやそもそも会社の利益を前提にしなければならなかったりすることばかりで、まったく「自分で考える」レベルじゃない!と思うのだった。

 最悪なのが中段に挙げたものだ。上席者の意向というのは、思考のレベルをその上席者のレベルに合わせなければならない、というもので、こうなってしまっては自分で考えるというものではなく、「(他人の想定する範囲内で)自分で考える」ということになってしまう。

 もちろん、社会人として仕事をする上ではそうすべきタイミングというのは悲しいことに発生することはままある。だが、例えば上席者が「なんで自分で考えないかな」といった意味の言葉を発したときには、二重の意味が含まれているので、下位者はダブルバインドに囚われてしまうのだった。

 こうなってしまったときはもうどうしようもないのだが、しかしこの「自分で考える」には非常に微妙な問題も含まれており、本当に「自分」のレベルが低いときには上席者の思惑とマッチしてしまうのである。そのため、往々にしてこの問題は気づきづらい。

 私はむしろ「他者を通じて考える」ことの方がいいのではないか、といったことを最近思い始めた。

 エドガー・アラン・ポーの論文の中に(記憶で書いているので間違いがあるかもしれないが)「最高の創造性というのは、肯定性から生まれるものではなく、最高度の否定性から生まれるのだ」といった言葉があり、実はこれは私の座右としているものでもあるのだが、しかし正確に述べるためにやはり引用しよう。

(…)独創性とは(極めて例外的な才能の持主は別として)断じて一部の人が考えるように衝動や直観の問題ではないのである。独創性とは、一般的に、苦労して獲得すべきものであり、最高度の積極的[ポジティヴ]な価値を有しながら、その達成には独創性[インヴェンション]よりもむしろ否定性[ネゲイション] が必要なのである。(『ポオ評論集』P.174)

 換言すると、最高度の積極的な価値を有する独創性を達成するには、独創性という衝動や直観といったものが必要なのではなく、否定性が必要であり、それは苦労して獲得するものなのだ

 自分で考えることは、一般的には独創の分野に入ると思うが、もちろんポーの射程は芸術や文学の方にあるかもしれないので、もう少し視野を広くしてもいいかもしれない。

 私の理解することを書くと、独創性とは一部の天才にのみ許されたり、あるいはギフト(天性)としてあらかじめ授けられたものではなく、既存の作品や考えを理解した上で否定(否定的に出発/結果的に否定)し、それを否定するだけの根拠や強度を苦労して持たせなければならない、ということであろう。

 このためには「自分で考える」だけでは確実に不十分であろうと思う。「自分」の中には限られたスペースでしか根拠や強度を成立させるための土台がない。仮にあったとしても、それは恵まれたギフトであるが、しかしそれだけでは独創を成立させられないかもしれない。そのためには、「他者を通じて考える」必要があり、例えば先行する作品・考えを否定するための論拠を見つけたり、仕組みを探ってみたりすることが求められる。そうした上でようやく自分で考えたものに独創性をトッピングすることができる。

 最高度の独創性を常に求められているわけではないが、しかしポテンシャルとしてはそうありたいものだと思うわけで、しかしそのためには非常に苦労しなければならない。極めて例外的な才能の持ち主、というのは私ではないし、もちろんあなたでもないからだ。