Outside

Something is better than nothing.

『ミッドサマー』(2019年)

ミッドサマー(字幕版)

ミッドサマー(字幕版)

  • フローレンス・ピュー
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 アリ・アスターの『ミッドサマー』を観る。

 フローレンス・ピュー演じる大学生のダニーは、ある冬に双極性障害の妹が両親を道連れに、一酸化炭素中毒で心中してしまう。しかしながら恋人のジャック・レイナー演じるクリスチャンとは約4年あまりの付き合いになるが、うまくいっておらず、誠実さのない恋人に自身に起こった出来事の不安や悲しみをうまく共有できずにいる。クリスチャンはというと、精神的に不安定な恋人よりも、ウィリアム・ジャクソン・ハーパー演じるジョシュや、ウィル・ポーター演じるマーク、ヴィルヘルム・ブロングレン演じるペレといった男友達と連むことを優先しており、ダニーに隠して、夏にスウェーデンのホルガというペレの故郷に夏至祭の取材という名目で遊びに行こうとしている。ダニーにそれがバレてしまい、クリスチャンは仕方なくダニーを誘うが、元々は男友達だけで遊びに行こうとしていたため、ばつが悪い。ペレだけは彼女に同情するものの、ダニーは自身の不安定さを克服できずにいる。そうして一行はスウェーデンに降り立ち、ホルガを訪れることになるが、そこで目にするのは異様な光景のオンパレードであった。見たことのない風習に、最初は興味を抱く一行だったが、ある日、年老いた村人たちが死を迎える儀式に出くわしてから彼らの態度は変わる。ジョシュやクリスチャンは論文の題材として彼らを見るようになり、ダニーは一歩引いてしまう。これはアーチー・マデクウィ演じるサイモンや、エローラ・トルキア演じるコニーといった、ただの観光で訪れているカップルと同様の反応であった。やがてカップルは消え、マークはマークでセックスのことしか頭になく、村の中で大切にされている倒木に立ち小便をしたことで村人の反感を買い、ジョシュはホルガ村の中で聖典のように扱われている書物を(禁じられたにもかかわらず)写真撮影しようとしてしまう。クリスチャンは村の女の子の性愛の対象となり、ダニーは幻覚剤入りの飲み物を飲んだ上でメイクイーンという女王選出のための儀式に参加させられる。クリスチャンは幻覚剤のようなものを飲まされた挙句に、衆人環視の中で娘とセックスし、外部の血をもたらすための種馬として使われ、その異様さに目が覚めて逃げ出したところで、逆さまに埋められたジョシュの脚を発見したり、背中全体が切り開かれて天井から吊るされたマークを発見したりしたところで、村人に薬物を吹きかけられ気を失う。女王となったダニーはホルガのための儀式を戸惑いつつも行っていき、やがて9人の生贄を捧げなければならない状況に直面する。クリスチャンか村人か、どちらかと生贄に捧げなければならい状況に直面し、それをダニーが選ぶという段に至った際、彼女はどうやらクリスチャンを選ぶことになる。そうして生贄たちは謎めいた施設の中で、ある者はすでに絶命し、その魂が人形に託され、ある者は生きたまま、またクリスチャンは村の敵として熊の皮を被らされて、焼かれる。焼かれ崩れる建物を見ながら、ダニーはようやく笑みを取り戻すのだった。

 面白い作品だった。この面白さはいくつかの切り口を考えさせられるが、徹底的に宗教色を排した宗教の「イメージ」が画面を覆っていて、おそらくここには神はいないのだろうが、しかしその神を排した何かがおり、その「イメージ」あるいは雰囲気だけがおぞましく画面の中に漂っている。それも明るい、白夜の中で。

 けれども、その内実はというと、アリ・アスターの考えるという接頭語がつくものであって、そこに奥行きはなく、のっぺりとした平坦な印象を受ける。舞台としてはそんなものだろうとも思う。

 やけに性的に厳格なところも気になったのだが、家畜があまり印象に残らなかったし、いやそもそも農耕している感じもしなかったので、彼らが何を祀っているのか本当に分からない。要するにこれは「神道」であったりするのかもしれないが、神道ならば性的には寛容であるので、やはり分からない。この分からない感覚が雰囲気を形作るものなのだろう。

 ダニーは「炎」のない火によって家族を失い、「炎」のある火によってクリスチャンを失うわけだが、前者は悲しみに包まれ、後者は浄化されたためなのか笑みを浮かべることになる。この「イメージ」の扱い、という点は物語の最初と最後というところでかなり機能しているだろう。この二つの対比は、一方は病気者、他方は健常者ということもあるし、一方は女性、他方は男性、ということもある。一方は家族、他方は恋人。一方は遠隔、他方は眼前。

 この対比の中で、彼女は自身の傷を癒やしていく、というよりも何か別のものに作り替えてしまっている、といった印象を受ける。全体的に雰囲気、イメージによって覆われており、それらが白夜という、おおよそ地球のほとんどの人からすると「夜のない」不思議な時間帯に行われていることが異様さを際立たせている。本来ならば太陽の光は何かを隠さないものだと思うのだが、ここでは意味が逆転しており、太陽の光によって何かが隠されてしまっている。