Outside

Something is better than nothing.

『蜘蛛巣城』(1957年)

 黒澤明の『蜘蛛巣城』を観る。

 三船敏郎演じる鷲津武時と久保明演じる三木義照は、北の館の主が起こした謀反を鎮圧する途中に、浪花千栄子演じる物の怪に遭遇し、武時はやがて北の館の主になるとともに、蜘蛛巣城の主をも望めると予言される。また、三木はというと、一の館の主になり、その子が蜘蛛巣城の主になると宣託される。一笑に付した二人だったが、太刀川洋一演じる主君が勲功を労うに、予言通り武時には北の館、三木には一の館とそれぞれ主になることを言い渡すので、二人とも物の怪の言を信じるに至る。山田五十鈴演じる武時の妻である浅芽は、その予言をさらに押し進め、主君殺しを提案する。当初は跳ね除ける武時だったが、疑心暗鬼を誘発するような妻の言葉に飲み込まれていく。隣国の乾を討つために北の館を訪れた主君を、浅芽は痺れ薬を含めた酒を護衛に振舞って無力化し、引き返せなくなった武時は主君殺しを行う。あまりのことに殺した槍を持って帰ってしまった武時の手をほぐし、浅芽は槍を元に戻し、血に汚れた手を洗う。国丸の子は主君殺しを疑われ、蜘蛛巣城を預かる三木から追放されることになり、三木の強い勧めもあって武時が蜘蛛巣城の主に収まることになる。かねてからの予言通りに武時は千秋実演じる三木の子であるところの義明を次期主に据えようと、子のない武時夫妻の養子に迎えようとするが、浅芽が反対し、さらには懐妊を告げる。そのために気持ちを変えた武時は三木親子を暗殺しようとするが、息子を逃してしまう。嵐の夜、浅芽は流産し、乾の軍勢が攻め入ってくる。武時は再び森の中に入り物の怪の宣託を受ける。森が攻め寄せてこない限りは城は落ちないと言われ、武時は安心する。城に戻ると、浅芽が汚れていない血を落とそうと手を何度も洗っている。逃げるように城外の様子を見に行った武時は、森が動いている状態に驚く。兵士を鼓舞しようと怒鳴るが、返事として矢が飛んできて、彼は討たれるのだった。

 シェイクスピアの『マクベス』を翻案し、戦国時代の架空の大名に置き換えた映画であるが、基本的にはそのまんまな印象を受ける。プロットは的確で整理されており、類まれな俳優であるところの三船敏郎マクベスを演じており、この存在感は他の追随を許さない。画面に彼が映っていると、もうそれだけで一定の説得力がもたらされてしまうところが凄まじいので、観ているこちらはマクベスを観ているのか、三船敏郎を観ているのかということを考えなくても済む。この映画の成功は、まずそこにある。

 能の演出を取り入れており、一部は成功しているが、音楽の繋ぎに関しては疑問が残るものだと思われる。当時の音響的な限界なのかもしれないが、途中でぶつ切りになっている印象があり、それがかえってリズムの悪化をもたらしている。

 脚本は無駄がなく、映像は雄弁であり、俳優もまた素晴らしい。傑作であるのだが、演出の一部に疑問を抱くのであった。

 あと、最後の矢が飛んでくるシーンは迫力があり、また三船の表情の変化が面白い。