『この世界の片隅に』(2016年)
のん(能年玲奈)が声優を務める主人公のすずは、見初められて北條周作のいる広島県は呉に嫁ぐのだが、時は第二次世界大戦の最中、呉という土地柄ゆえ空襲の被害も凄まじく、物資は欠乏していくばかり。そんな中でもすずは持ち前の脳天気さを活かして、少ない物資の中で何とかご飯を作ったりしていた……といったような筋で、最初のイメージは戦時下における庶民の日常ということでさほど厳しい描写もないものだと思っていた。
実際に観ていくと違う。例えば空襲のシーン――特に爆弾が爆破したときの破片が降り注ぐ様などは観ていて身震いするほど恐ろしいものだった。
丹念な描写を積み重ねていて非常に好感が持てる一方で、すずの、それまでの脳天気さが切断されるような事故などは、その前後で暴力による刻印のようなものがはっきりと残ってしまっていて、身につまされる。
その出来事を知っているこちらの身からすれば、やがて落とされてしまう原爆の足音が非常にはっきりと聞こえてくるようでおぞましく、そのおぞましさのあとに、エンディングに至る最後の救いというよりはかすかな希望のようなものがまた実にこちらとしても助かるのだった。
この映画を観ながら、私はなんとなく坂口安吾の「堕落論」を思い出していて、これは空襲の「偉大な破壊」の中では、人々はあっけらかんとした美しさを持っていた、といったようなものである。戦後の堕落と比べると、人々は非日常的すぎて美しかった。ここで描かれるこの世界の片隅に存在する人々の姿もまた、美しい。安吾が「堕落論」で触れていたのは15~17歳の娘たちの笑顔だったが、すずもまた同年代であるところがまた、興味深い。その後の不発弾の爆発事故による暗い影を考えると、余計に。
何度も引用してしまうのだが、安吾の偉大な破壊について触れた箇所は以下の通りである。
あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
(坂口安吾「堕落論」より)
少し話が逸れてしまったが、『この世界の片隅に』は、もちろんそういう映画ではない。
何とも捉えがたい作品であり、そのアニメーションの美しさには目を見張るものがある。すずが眺める空襲における空の爆撃の、あの破壊の最中にある美しさなんてものは、非常に両義的だった。
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「偉大な破壊」と「平凡な破壊」について書いた記事。
(表記統一のためタイトルを訂正の上、リンク等を追加[2016年11月18日])