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Something is better than nothing.

平凡な破壊

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 数え切れないほどの暴力が今も昔も渦巻き、人間のどうしようもない愚かさと、その愚かさの最中にある私自身の、意図の有無はともかくとして発露されてしまう暴力性に辟易しつつ、日常的に引き起こされる数多くの暴力によって何人もの人々が亡くなっている。テロの遍在化によって、テロは特別な出来事ではなく、日常的な出来事の一つになった。もちろん私たちが毎日、学校や会社に行くような出来事ではないにしても、世界を見渡せば、当たり前のように起きている出来事としてそれはある。ある種の内戦状態に陥っている、と言うことができるだろうが、このときにあまり意識されることなく呟かれる言葉の一つに「戦争」というものがあり、この戦争の暴力が人々を思いも寄らぬ落とし穴に陥れてしまうことになる。『トゥモロー・ワールド』(アルフォンソ・キュアロン、2006年)の冒頭、主人公がコーヒーを買って店を出てすぐにその店が爆破されるという一連の流れを思い返すように、日常生活の中にテロが溶け込んでしまっている。とりわけここ数年の間に起きたフランスでのテロ事件(シャルリー・エブド襲撃事件、パリ同時多発テロ、ニーストラックテロ事件等)は、世界中の人々に深い衝撃を与えると共に、不謹慎な言い方だが最低限の労力で最大限の衝撃を生じさせることに成功している。
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  そして引き起こされるのは報復の連鎖である。非対称な暴力がここで発生することになり、私たちがよく見たのは空爆の決定と実施で、見慣れた光景になってしまった死と怒りが映像として映し出され、文字として伝わることになる。以前に調べたとき、2015年に実施したアメリカ軍による空爆の、民間人死傷者は二千人前後というデータを見つけたことがあった。命を数値化してはならないという倫理的な物言いはもっともだろうが、アメリカ人のテロ被害者はこの数に満たないはずであり、この過剰な報復はテロリストたちにとって、自分たちが異質なものであるという印象を強めることになる。

 この数値的な非対称は、シーラッハの『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)という戯曲を見ると、象徴的に見て取れるようになる。ある男が裁判にかけられる。理由は、彼が七万人いるサッカースタジアムに飛行機を突っ込ませるというテロ行為を防ぐため、テロリスト及びたまたま居合わせてしまった乗客七百人を殺したからである。劇中の裁判は、その殺した理由について、さまざまな論点を挙げ、また哲学的な内容を織り交ぜていき、倫理的な限界を問うていく。最終的に物語は、どちらかの選択を一方的に選ぶことなく、有罪と無罪の両方のケースを呈示することになるが、劇中で登場人物も述べているように、ここには数値的な還元をすべきかどうかの価値基準の是非というものが多分に含まれている。たとえ(相手を)千人を殺したからといって、(味方の)百人が殺されても仕方がない――というわけではないように、百人を殺されたからといって、千人を殺してもいい、というわけにはいかない。しかし、『テロ』の中でも類例が出ているように、千人を助けるために百人を殺すといったとき、気づけばふと迷い込んでいるのは数値化の迷路だ。
テロ

テロ

 

 もちろん人は数値的なもののみが価値基準のすべてを握るわけではない。むしろ、逆説を経ることで、異様な価値観の表出に私たちは出会うことになるだろう。例えば私がそのときに思うのは、坂口安吾の「堕落論」の中で出た「偉大な破壊」という語だ。少し長いが、引用しよう(青空文庫より引用)。

 
 けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。麹町のあらゆる大邸宅が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に坐っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変るところがない。ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、罹災者達の蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交い、路上の鮮血にも気づく者すら居らず、たまさか気づく者があっても、捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さない。米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。
 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 
 圧倒的な破壊の下では、上述してきた数値的なものに対する懐疑を含んだ倫理観など吹き飛ばされてしまうがごときもので、そこにおける人々は実にあっけらかんとしたものである。有罪か無罪かの問いが、そもそも問題ではないかのように、敵からの破壊に晒されたはずの彼らの姿は「驚くべき充満と重量をもつ無心」を伴っていた。
 しかしテロのあとの私たちの、驚くべき軽薄さと空虚さは何なのだろうか。もはや見慣れてしまったテロや空爆のあとの風景を私たちは諦観をもって眺めることしかできない。「だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする」と安吾が続けて書くとき、思い至るのは堕落した私たちの平凡さである。そこには瞬発的な怒りと哀悼と、本当に犠牲となった人々の悲しみを断片的に享受することの満足があるだけで、運命も、充満もない。
 堕落のあとに生きる私たちの、平凡さの中に組み込まれたテロ行為がもたらす平凡な破壊は、私たちに偉大な破壊を与えてはくれないのである。
 
(…)つまり、不安の文化をグローバル化し[13字傍点]、内政における社会改革や、次の世代の偉大な発明などをもはや期待しなくなり、世界で生じる新しい危険をあたかも先取りするかのように恐れるようになります。自然と伝統という、あらかじめ所与として存在していた安全が失われたリスク社会においては、不安というものが、共同体の新しくて壊れやすい紐帯となります。わたしたちはそこに不安共同体の敏感さと非合理性が生まれているのを見ますし、そのような敏感さと非合理性は、ラディカルな決着と境界画定の動きにとって極めて有益な土壌になります。テロの脅威を政治的、軍事的に規定することは、これらの不安にはけ口と焦点を与えます。こうして、自分の境界の内部や外部の何者かに対する戦争を支持する波は、絶えず新しく生み出され続けていきます。不安で一杯の人間は、問うことも抵抗することもせず、自分の生活の基盤(自由や権利)に対する侵害を受け入れてしまいます。そのような侵害を求めることなど以前ならば、考えることすらできませんでした。
ウルリッヒ・ベック「日本語版への序文」、『世界リスク社会論』所収、島村賢一訳、ちくま学芸文庫、2010年、15頁)
 
 平凡な破壊がもたらすものは「不安」であり、これによって「自分の生活の基盤(自由や権利)に対する侵害を受け入れてしま」う。そして、この「不安」は「共同体の新しくて壊れやすい紐帯」となるのだが、たしかにテロのあとに引き起こされた共同体におけるある種の対立は、この「不安」を基にしているのだろう。この侵害を受け入れた人々は、直感的にテロがすでに身体の一部となっていることに気づいており、この身体感覚に根ざした不安が、たしかに紐帯とはなりえるが、そうであるがゆえに生理的な好悪がはっきりと表出されるのだろう。
 この内へ内へと向かっているかのような閉塞感は、まるで『トゥモロー・ワールド』そのものである。世界には子供は生まれず、老い続ける世界の中で彼らは、そして私たちは永遠の内戦に蝕まれていく。そこでは誕生を諦めていた子供が新たなる希望として描かれるわけだが、私たちの世界の「子供」とはいったい何ものなのだろうか。 
世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊

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