Outside

Something is better than nothing.

『リトル・シングス』(2021年)

 ジョン・リー・ハンコックの『リトル・シングス』を観る。

 デンゼル・ワシントン演じるディーコン保安官は、証拠集めの関係で保安局に呼び出されると、ラミ・マレック演じるバクスター刑事が扱っている事件に関係するようになる。それは婦女子の連続殺人事件で、かつてディーコン保安官が刑事時代に携わっていたものと酷似していた。その中で、ジャレット・レト演じるスパルマが捜査線に上がってくる。バクスター刑事は経験豊富なディーコンの助言を乞うが、次第にスパルマが犯人だと思い込むようになってくる。ディーコンはかつて事件にのめり込みすぎ、過労により心臓の手術を受けたほどだった。妻とは離婚し、今は保安官として働いている。ディーコンはかつての事件の責任感から事件を追いかけていくが、スパルマが怪しげな言動を繰り返していくので、次第にバクスターと共に彼こそが容疑者だと思っていく。張り込みや違法な家宅捜索を行うが、証拠らしいものを見つけることができない。スパルマは犯罪マニアで、昔に狂言まがいのことで警察に捕まったことがあるらしい。家を張り込んでいるとき、ディーコンが買い出しに行った隙に、スパルマバクスターに近づき、行方不明になっている女性の遺体の場所を教えると言う。彼はスパルマの車に乗って山に行くが、遺体が埋められた場所を教わってその通りに掘ってもそこには遺体はなく、何度も間違えたと場所を変えるスパルマに苛立ったバクスターは、ひょんなことから彼をスコップで殺してしまう。スパルマはやはり狂言を言うだけだったのだ。ディーコンがその場所を訪れ、冷静に後片付けを行っていく。事件はFBIが引き継ぐことになる。ディーコンは不意に思い出す。誤って助けを求める女性を殺してしまった過去を、そしてそれを仲間と共に隠蔽した過去を。バクスターは虚ろな表情で家族と共に過ごし、バクスターから赤いバレッタを受け取る。それはスパルマが持っていたもので、バクスターが探していた行方不明者のものに似ていた。だが、それもまたディーコンが買ってきたものだったのだった。

 基本的には警察の犯人への憎しみと過剰なまでの被害者への入れ込み、そして検挙率その他によるKPI設定による捜査への政治的介入等によるストレスによって、実際の犯人像や証拠から離れて捜査官の願望が肥大化してしまう、といった話になるだろうと思われる。デンゼル・ワシントン演じるディーコン保安官は、その過剰な思い込みを肥大化させ、さらには健康を害すまでに至り、いやそもそもとして守るべき市民を庇護できずに誤射して殺してしまっている。その結果、犯人逮捕からは遠ざかり、ジャレッド・レト演じるスパルマという犯罪マニアが行うコピーキャットですらない仄めかしに翻弄され、前途洋々だったラミ・マレック演じるバクスターを破滅へと導くことになる。基本形としては欲望の抑制に関する話なのだが、そこへ警官という意匠を導入することで正義の問題が介在することがこの映画のややこしい(ややこしくはないのだが)部分で、それがディーコンの安宿での幻覚になるのだろう。エンジェル、と呼びかける彼は、結末で述べるようにすでに天使がその元を去っているからだ。

 話としてはもはや目新しくないもので、『BOSCH/ボッシュ』(2015〜2021)でタイタス・ウェリヴァーが演じたハリー・ボッシュの醸し出す正義とその政治的な背景の複雑さからすると、おままごとのような印象を受けるのだが、このドラマを辛うじて成立させているのが各々の役者であるだろう。デンゼル・ワシントンは言うまでもなくこの複雑なキャラクターを実直に演じることとなっているし、それはラミ・マレックもそうだろうと思う。ジャレッド・レトに関しては、この好演をこの映画でわざわざ見せなくてもというくらいの怪しげな役を見事に演じており、この脚本のどうしようもなさをカバーしている。

 ただ格別の破綻はないため、至って普通に観られてしまう次第で、そうなってくると「デンゼル・ワシントン映画」に回収されてしまうような気がする。そうなってくると、トニー・スコットを召喚すべきではないか、と私などは思ってしまうのである。