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『名探偵コナン 紺青の拳』(2019年)

 

名探偵コナン 紺青の拳 (小学館ジュニア文庫 あ 2-36)

名探偵コナン 紺青の拳 (小学館ジュニア文庫 あ 2-36)

 

 永岡智佳の『名探偵コナン 紺青の拳』を観る。

 シンガポールのマリーナベイ・サンズで弁護士シェリリン・タンが殺害され、その現場に犯罪心理学者のレオン・ローが現れるが、彼には鉄壁のアリバイがあった。予備警察官のリシ・ラマナサンはマーク・アイダン警部補とともに事件を調査していくが、そこには怪盗キッドの予告状があった。一方、日本では江戸川コナンが鈴木園子の恋人である京極真のシンガポールでの空手トーナメントに参加ようと思っていたが、工藤新一のパスポートしか持たない彼は、灰原哀に一時的に元の体に戻れる薬を投与するよう求めるがにべもなく却下される。阿笠博士の家からの帰り道、怪しい人影にコナンは身を潜めるが、現れたのは工藤新一の恋人でもある毛利蘭の姿だった。しかし、そこでコナンの意識は途切れてしまう。次に目が覚めると、そこはシンガポールで、なんと怪盗キッドの目論見でコナンはシンガポールに連れてこられてしまったのだった。蘭や園子、また毛利小五郎に対して、彼は現地の子供として自らをアーサー・平井と名乗る。また、シンガポール毛利小五郎はリシの歓待に会い、レオンの経営する警備会社を初めとした施設を紹介される。京極が出場する空手トーナメントの警備を担い、またその商品でもあるブルーサファイア「紺青の拳」をレオンらは警護していた。怪盗キッドはその宝石を盗むこと、また自らが犯していない殺人の嫌疑を解明するためにコナンをシンガポールに連れてきたのだった。だが、キッドといえどもシンガポールでの盗みは京極に阻まれ、また最新の警備設備やレオンの読みに阻まれてしまう。また、空手トーナメント会場で盗みに入ったキッドは、盗もうとしたブルーサファイアの安置場所で、またしても何者かの陰謀に巻き込まれ、宝石を安置した箱の内部にレオンの秘書であるレイチェル・チェオングの死体が現れてしまう。同じ頃、京極と園子は順調に勝ち上がるトーナメント後の昼食中に暴漢に襲われ、また園子は警察官に助けを求めようとしたところ、パトカー泥棒の現場に出くわしてしまい、パトカーに轢かれてしまう。京極はレオンにその拳の持つ意味を問われ、レオンによってその拳を封印するためのプロミスリングをつけられてしまう。そして彼は自身に問うのだった、その拳は何のためにあるのか、ということを。また、トーナメントを棄権したことをきっかけに園子との関係も悪化し、京極は袋小路に陥っていく。コナンやキッドは真犯人を追っていくが、その中で一連の事件はレオンによる陰謀であると検討をつける。中富海運という日本の海運会社の社長がレオンと懇意にしていることや、海賊との関係から、シンガポールの街並みを破壊し、再開発計画を牛耳ろうとしているということを。そして中富海運のタンカーが海賊に乗っ取られ、マリーナベイ・サンズを初めとした街並みが破壊されようとするテロ活動が勃発する。コナンとキッドは陰謀を防ぐために奮闘する。そしてレオンを追い詰めるが、そこにはリシがいた。そう、レオンは自分のために動いているつもりだったが、本当はリシの復讐でもあったことが判明する。リシの父親はレオンの一連の準備の過程で殺され、彼は以来、レオンへの復讐の機会をうかがっていた。レオンは紺青の拳を報酬に海賊を使い、シンガポールの街並みを破壊するつもりだったが、海賊は手っ取り早く鈴木財閥の令嬢である園子を拉致しようとする。状況が混乱し、またキッドやコナンの奮闘も限定的になる中、キッドはトランプ銃で未だ拳の意味に迷う京極真のプロミスリングを切る。迷いが吹っ切れた京極は園子を負ぶったまま、京極の前に立ちはだかるマーク・アイダンを退け、蘭や小五郎もまた海賊たちを退け、レオンの陰謀、そしてリシの復讐は終わりを告げる。

 劇場版の名探偵コナンというものは、以前より記しているようにアクションヒーロー物の系譜の中に位置づけられるのが正当であるような、そんな出来栄えになっている。もちろんこだま兼嗣が描いていたような、原則としてミステリーを基軸とした一連の素晴らしい仕事から、国民的なヒーローとして描かれる中で、アクションが主体になっていく、そういう事情はよく分かる。

 とは言いながらも、前作「ゼロの執行人」(衛星軌道をサッカーボールで変更)や「純黒の悪夢」(観覧車がころころ)のような、ややもすれば荒唐無稽とのそしりを免れない方向性になってしまうことも考えられる中で、今回の名探偵コナンは、例えば「11人目のストライカー」で限界にたどり着いてしまったような「日本」という制約(テロに使った爆薬はブラジルから調達)を、マリーナベイ・サンズの、あの船の墜落によって、いとも簡単に突破して見せる。

 もちろんそこで描かれた出来事がまったくのリアリズムに拠っているかというと、そんなことはないのだけれども、それでもこれはまさに映画なのだと呼ぶより他はないリアリティーを持っていて、その上でもはやこれは「名探偵コナン」というアニメシリーズの枠組みを超えた、映画の強度を持った作品なのだと、私は断言したい。

 例えばそれは工藤新一(実際は怪盗キッドが扮している)と毛利蘭との、付き合い始めた後のどことなく「生々しく」も感じられる関係性(しかし、最後には少しひっくり返されるのだが)や京極真と鈴木園子の、どことなく淡い、しかし少しずつステージが上がっていっている関係性といったものの、細やかな描かれ方にもよるだろう。

 また、全編を通じて英語が使われているところもまた、興味深い点だった。おそらく日本のアニメ映画の枠組みにおいて、ここまで英語が使われることはあまりないことなのではないか。そしてその使われ方が、単に異物、「外国語」としての描かれ方ではなく、むしろ非常に自然な形で(シンガポールという立地を鑑みつつ)導入され、おそらく同時にある種のハリウッド的な扱いなのではなかろうかと思うのであった。

 冒頭のエレベーターの中での刺殺(実際は、少しトリックがあるものの)、その後の歩行、また爆発、あるいはキッドが忍び込んだ先での死体の登場(これは初期を彷彿とさせる?)といったものについて、どれもこれもが一級だと私は思った。

 つまるところ、私はこの映画を肯定したいし、非常に素晴らしいものを見せてもらった、と感じているのだった。