眠たい目をこすりながら、職場へと向かう朝まだき、駅に向かう狭い通路を通り過ぎているときに、異臭に気づいた。おや、と感じたのを覚えている。
その通りは昨夜の酔客どもの中身がぶちまけられている実に汚い通りでもあり、しかしそれはそれである種の歓楽を感じさせて止まない。私は放射線状に広がる吐瀉物を眺めるのが、実は嫌いではなかった。それは狂騒、狂乱の結果であり、同時に人々の愚かしさの結晶でもあった。そういう愚かしさは、自分自身にも備わっているものであり、どんなご高説をその席で賜ろうとも、帰り道においては千鳥足であちこちに体をぶつけ、途中で幾度となく嘔吐するのである。かくしてアルコールと財布の中身は、吐瀉物となって無碍に消えていく。その胃の内容物の残骸に鳩が群がって、中の、おそらくはシメの一杯ということでラーメンを食ったのだろう、なぜかピンク色に染まった麺類を啄んでいるところを見て、どうにも哄笑しそうになってしまったこともあるくらいだった。近くにいた、一体どういう生活をしているのか分からない二日酔いを体現したような女も、それを見て呵々と大笑した。
都会の鳩は汚い。私は田舎の生まれだから、都会に来たときに鳩の汚さと、あまりの人慣れの具合に驚いたものだ。ほとんど手で掴めるではないかという距離でさえ、彼らは逃げない。羽根がついていることを忘れてしまったかのように、鳥らしさを忘却して走り去る彼らを見るたびに、都会の鳩の堕落を思った。尾道の浄土寺にいる鳩は、餌を持たない限りは決して人に近づかないのを思い出した。奴らは人を毛嫌いして、打算をもってしか人間に近づかなかった。そして私にとっては、その方が鳩らしいように思われた。
ところが都会の鳩は、あまりに人に慣れすぎている。鳥らしさを喪失してしまっている。通勤する人々の合間を縫って、地面に落ちた誰のものとも知らぬピンク色の麺類を啄む彼らは、私たちと同じものを食べてしまったが故に人間に近づいたのだろうか。あのピンク色の麺類が、薄汚い都会の鳩の身体を構成している。だからなのかもしれないが、彼らは鳩のようにはまったく感じられない。人を避ける様は、行き交う人々の動きとどこか似ていた。
その日もまた、いつもと同じように吐瀉物を啄む鳩を、私はどこかで想像していた。安易な発想と言ってもいいのかもしれないし、あるいはそれこそが日常性だと言ってもいい。けれども私が出会ったのは、首のない鳩の死体だった。
それは日常を簡単に打ち壊してしまうほどに凄惨な現場だった。私はどうしてまた、こんな凄惨な殺され方をしなければならなかったのか、と思った。鳩の首はもぎ取られ、おそらく相当に抵抗したのだろう、辺りには鳩の死体を中心として、放射線状に羽根が散っていた。どこか儀式めいていると思ったのを覚えている。それほどまでに異様さを醸し出していた。
野良猫か、あるいは鴉か、いずれにしても何ものかに襲われたのだろう。首をもぎ取られているその傷口から、腐臭が臭い立った。ちょうど暑くなってきた頃だったので、そのむわんとした臭気に鼻をしかめ、凄惨さに思わず目を伏せた。私は見てはならぬものを見てしまったような、居心地の悪さを感じられた。人々は、その凄惨な殺され方をした鳩の死骸を、まるで存在しないもののように避けて通っていく。
都会の鳩の行く末は、人々そのものを啄みながら人になりきれず、かような無関心の中に凄惨さを隠して、おそらくはゴミ処理業者にあっさりと処分されていくに違いない。非情なものを見たという感じがしたので記しておく。