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Outside

Something is better than nothing.

残存性

芸術
 十年くらい前のことなのだが――という書き出しを書いて思ったのだが、かつて物を書き始めた頃の自分の「十年前」という時間軸は、物心がつき始めたばかりの頃か、まったくないときのことで、記憶というものは常に拡大をし続けていく一方ではあるが、私にその時間軸が当たり前のように加わり始めたことに少し驚きを感じている――私は堤防を立ち去ったときに、何かを残してしまったという感を抱いたことがある。私は田舎の島に育った人間であるため、海というものの距離は近い。だが例えば沖縄や湘南のように海というものが肯定的に存在し続けるイメージがあるわけでもなく、漁港のように生活と労働の場所というイメージがあるわけでもなく、ただ本土と故郷とを隔てる物理的な障壁としてそれはあったし、同時にその反対側には瀬戸内海の穏やかな気候の気配があった(つまり「親しい対象」というわけでは必ずしもなかった)。そこで釣りをしたこともあるし泳いだこともあるし牡蠣を食べてあたったこともあり花火をしたこともある場所の堤防を立ち去ったときになぜそう感じたのか、実はよく分からない。よく分からないまま、突如出現した新しい感覚を覚え続けてきたことになるのだが(そう十年も!)、その残されたものの感じは喩えるならそう、家の鍵をかけ忘れて家に戻ろうとしたときの感じに似ている。ただ実際は戻ったところで鍵はきちんとかけられているし、何かを忘れてしまったわけではない現実に落胆しつつも安心もしているのだ。
 
 ある夏のことだったが、コップに差してある黒いストロー六本がやけに生々しい印象を与えて反応に困ったことがあった。それはストローがコップに残存していたためであると思うのだけれども、しかしあの妙に印象に残る生々しい実感は、いったい何だったのだろうと今でも考えることがある。六本の黒いストローがあった。私は結局一本もそれを使わなかったのだが、夏の太陽の光線が絶妙な具合に(フォトリアルに、とでも言おうか)黒いストローを照らしており、その光と闇によって象られたストローの像が当時の私の網膜にしっくり来た、ということなのかもしれない。そしてそれは井の頭公園の階段における葉っぱに引き継がれていくこととなる。
 
 井の頭公園の近くのアパートにかつて住んでおり、そこに至る道筋に階段があった。その脇に植物が生い茂っており、雨の季節になると妙に生々しくテカって毒々しい印象を私に与えた。とりわけやや暗いタイミングがいちばん存在感を発揮するタイミングで、飲んでカラオケで歌い明かした帰り道の、早朝まだ太陽も昇りきっていない薄明かりの中で植物は朝露に濡れたその毒々しい生命の暗さを私に印象づけたのだった。眠たい目かつ酒がまだ体に残っており疲れていたのだけれども、植物を黙殺して階段を上ることに引っかかりを覚えたものだった。
 
 それは物が場所に対して残ろうとする意志や記憶であり、一時期は残存性と呼んで小説のテーマにしようと試みていた。残存性は頭に今でも残りながら、その内実を少しずつ変えながら今に至っている。
 特段、何かに繋がるようなものではないのだが、自分の中で妙に引っかかり続けている感覚である。
 
 最後に、とりとめのないことを書いて終わろう。先日、タイに行ったときにスピードボートというものに乗った。そのときにふと空想の中で、私は小舟の中で釣り針を踏みつけたことを思い出した。実際に踏みつけたことはなく、その鋭い針が私の足の裏を突き破って血を流したこともないし、小舟の中の濁った海水を赤く染めたこともなかったのだけれども、それでも私は空想の中でたしかに釣り針を踏みつけて血を流し、小さな舟の閉じ込められた海水を赤く濁らせたのだった。釣りをしたことはかなり昔の記憶にあり、私は自分の経験としてではなく単に知識としてしか知らない釣りという楽しみの中に、なぜだか踏んだこともない釣り針(棹を投げようとしたときに後ろにいた人の衣服などに釣り針が引っかかるところは見たことがあるけれども)を思い出したのだった。この思い出した記憶の保持者は、いったい誰だったのだろうとよくよく考えると奇妙な状態にあることを思う。人にしろ動物にしろ、架空の記憶を与えることは医学的に可能な処置らしいのだが、だとすれば私の私として持つ記憶は私自身が想起したとしても私のものではないわけで、この釣り針の記憶はすなわちスピードボートあるいはボートが持つ残存性ということではなかったのか。
 
 以前に保坂和志の小説論の中で印象深かった文章があるのだが、それは人が死んでもそれは肉体的に滅びただけで、その人の例えば通っていた道に人の痕跡のようなものは何か残っているというものだ。その人がその道を毎朝かどうかは知らないが通っていた身体性を伴った記憶はその人の死後もなお残るがゆえに人は死なないといったようなもので、ボルヘスはこのように述べている。
 
たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。その作品が忘れ去られたところですこしも気にすることはない。
(「不死性」、『ボルヘス、オラル』所収、木村榮一訳、水声社、59頁)
 
 その人自身が消えてなくなったとしてもその人自身の行いを誰かが反復したときに、その誰かはその人として立ち現れることになるというこの反復を伴った不死性は、ボルヘス自身の「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」やカサレースの『モレルの発明』などにも通じていくことになるのだろう。