Outside

Something is better than nothing.

信じがたい憎悪

 2016年1月5日にオバマが銃規制について涙ながらに訴えたという記事を見かけてから、アメリカにおける銃規制の問題の難しさについて改めて思いを馳せることになったのだが、毎日新聞の記事によると以下のようなことが書かれている。

 オバマ米大統領は5日、ホワイトハウスで演説し、銃販売の規制を強化する包括的な対策を発表して国民に理解を求めた。オバマ氏は「議会の動きを待てない」として、全ての銃販売業者に免許の取得と購入者への身元調査を義務づけることなどを議会の承認が必要ない大統領権限で実施すると説明。銃乱射事件の被害児童などに触れ、涙を流しながら銃規制強化の必要性を訴えた。
(…)
 これに対し、共和党は「自由を損なう脅しの一種だ」(ライアン下院議長)などと猛反発している。11月の大統領選に向けた候補者指名争いで首位の不動産王トランプ氏や、2位のクルーズ上院議員などは規制強化を批判し、自身が当選すればすぐ元に戻すと主張。同党を支持するNRAは声明で「米国民には事実の裏付けを完全に欠いた感情的で恩着せがましい講義は必要ない」と演説を酷評し、銃を所持する権利の擁護に向けた活動を続けると対決姿勢を示した。(「<米大統領>演説で『銃規制強化の必要性』涙の訴え」、毎日新聞http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160106-00000025-mai-n_ame

 不確かな記憶ではあるが、銃規制というよりも銃の所持自体は必ずしも乱射事件その他の殺人事件と直結するわけではなく、銃の所持が認められた国において、例えば喧嘩などがあった際に発砲によって解決が図られるということは必ずしもなく(もちろんアメリカにおいてもそう言いうるだろうが)、当人たち、あるいは地域のコミュニティによる銃撃以外の解決が図られることになる。しかし、アメリカにおいて顕著に見えてしまう(「社会問題」として問題化されてしまう)出来事として銃乱射といった無差別に市民を殺傷する行動が幾度となく見受けられる、ということで、これは実に市民的には危機感を覚えてしかるべきものだ。国家的に何らかの解決を図る必要があるだろうが、例えば目には目を、ということで全米ライフル協会辺りが主張しているだろう、銃には銃をという武装も選択肢として上ってくるのかもしれない。

 武装した襲撃者への対応に関する研修は長年にわたって警察、学校、そして企業向けに実施されてきた。だが現在は、一般の人々の間でもそのような研修に対する需要がますます高まっている。
 米国では殺人のうち銃乱射が占める比率はごくわずかだ。しかし、このようなサバイバルコース(生き残りセミナー)に人気があること自体、米国全体にこうした攻撃への不安が広がっていることを示している。とりわけカリフォルニア州サンバーナーディーノで14人が殺害された先月のテロ事件以降、こうした不安が高まっている。(「銃から身を守る『生き残りセミナー』、米で大盛況」、ウォール・ストリート・ジャーナル、http://blogos.com/article/153974/

 そして上記にあるように、武装襲撃者に対しての対応をマニュアル化し、市民が自らの身を守るための自発的な行動も存在しているのである。ちなみに上記の記事の中で市民たちが学んだものはというと、以下の「原則」になる。

(…)住民たちは「Avoid Deny Defend」原則や、銃が乱射されている最中は「Duck and Cover(伏せて覆え)」といった行動を学んだ。(訳注=「Avoid Deny Defend」原則とは、Avoid the attacker (犯人を避けよ)、Deny the attacker access to the area(犯人が自分のいる場所に入ってくるのを防げ)、Defend yourself(自己防衛せよ)の3原則のこと)(前掲記事より)

 ただこれはあくまで対症療法的な防衛策であり、いったいなぜここまで市民同士で殺し合う必要性が出てくるのか、私としてみれば不思議に思うのである。もちろん人間は互いに他者であるのだから、他人がいったい何を考えているか分からないのだし、こちらに危害を加えてくる可能性を完全に消し去ることはできないのだが、しかしかといって互いが互いを常に警戒し合うということもまた少し非現実的な社会状況とは言えないだろうか。
 町山智浩の著書の中で(うろ覚えになるのだが)隣人に対するパラノイアに陥った挙げ句に、不信感に駆られて排外的な行動を取ってしまうアメリカ人の心性に触れた文章があったような気がするのだが、それは童貞的な男の心理に関する孤独の問題だったかもしれない(例えば『タクシードライバー』のような)。しかし、この銃規制に関する2つの記事を読んで、日常的にその他の記事も読んでいく中である記事が目に留まったのだが、それはドナルド・トランプの演説中(シリアからの難民は「イスラム国」の関係者だとする主張を展開したものだったらしい)にある女性が立ち上がって無言の抗議を行ったのだが退場させられてしまったというもので、私が驚いたのはそれに続くトランプとその支持者たちの反応だった。

 ハミドさん[その女性]は退場後、CNNとの電話インタビューで「お前は爆弾を持っている、と繰り返し叫ぶ人もいた」「みるみる険悪な雰囲気になり、本当に恐ろしかった」と話した。
(…)
 トランプ氏はその後、「信じがたい憎悪が我々に向けられた」と騒ぎに言及。「かれらの憎悪であって、我々側からの憎悪ではない」と強調した。(「トランプ氏集会で無言の抗議、イスラム教女性が退場に」、CNN、http://www.cnn.co.jp/usa/35076015.html

「信じがたい憎悪」とトランプは述べることになるのだが、信じがたい憎悪とはいったい如何なるものなのか。例えばこの記事の中で語られたある女性の形容として「イスラム教の女性」とあったが、この女性が無言でその場に立ったことが「信じがたい憎悪」というものに繋がったわけではなく、彼女の持っていたあるイメージ、それは「イスラム」というイメージが「信じがたい憎悪」となってもともと寛容さのかけらも持ち合わせていなさそうなトランプを大統領選の候補者として相応しからぬパラノイアへと陥らせているのかもしれない。
イスラム」は今日において「ある意味で、すべてのもの、あるいは何でもかんでもを意味する受容器となった」とパリ第七大学で精神分析の教鞭を執るフェティ・ベンスラマが「本質的なことは、社会がムスリムについて何をしたか、ではなく、ムスリムにしたことについて、ムスリム自身が何をしたかということなのです」(『現代思想 2016年1月臨時増刊号 パリ襲撃事件』所収、P.144-145)というインタビューの中で述べているように、トランプは「イスラム」というイメージに「信じがたい憎悪」という架空の何か――トランプは「かれらの憎悪」と述べていたのだから、より具体的に――架空の隣人を見出したのだ。
 そしてこの架空の隣人は、パラノイアを誘発させることになる。
 架空の隣人は他者であり、そうであるがゆえに対話が不可能であり、ただ女性が無言でその場に立ち上がって抗議しただけで、「かれらの憎悪であって、我々側からの憎悪ではない」「信じがたい憎悪」とまで言わしめるほどの悪意を持つことになった。さらに主体である「かれら」が銃を持ちうる可能性は否定しきれないため、トランプとその支持者たちは「かれらの憎悪」を過剰なまでにヒステリックになり遠ざけるしか対抗手段を持たないのだろう。それは免許の取得や身元調査によって規制することのできない「我々」(トランプたち)の恐怖を根源とした自衛の本能であり、その意味で彼らは彼らの本能に忠実なのだ。
 このトランプの恐怖は2015年12月2日、生き残りセミナーに人気が高まったきっかけともなったカリフォルニア州の障害者支援福祉施設サンバーナーディーノで起こった銃乱射事件(14名の死者を出した)も、もちろん背景としてあるだろう。冒頭に取り上げたオバマの涙ながらの訴えはこの事件で用いられた殺傷力の高い銃を規制するためでもあるのだし、連綿と続いてしまっているアメリカにおける「社会問題」としての銃乱射にも繋がりつつ、同時に犯人夫妻(つまり男女のペアである)がイスラム教徒であり、「イスラム国」に対して忠誠を誓うメッセージが発見されたことから、前述の通り「イスラム」と関連のある人間はアメリカにおいてあらゆることをしでかしかねない「憎悪」となったのかもしれない。このことから女性が無言で立ち上がって抗議を行うことでさえ「信じがたい憎悪」として捉えかねないムードが12月2日以降のアメリカにはあったのかもしれないのだが(「生き残り」のためのセミナーさえあるのだから)、実際女性が行ったのは無言で立ち上がっただけなのだった。
 この「信じがたい憎悪」はその報復としてアメリカ軍による空爆によって多数の命を奪う形で償われるのだろうが、あるウェブサイトのデータを見る限りだと2015年におけるアメリカ軍のイラク空爆の回数は3500回を超え、そのうち民間人の死者数はおおよそ1778人から2332人と述べられていることが分かる(http://airwars.org/ より)。この非対称が女性をトランプの演説に対する抗議へと駆り立てたのであれば、トランプの述べる「我々」が決して抱くことはない「信じがたい憎悪」というものは、いったい如何なるものなのだろうか。それは空爆の結果として住処を奪われ、また政治状況の変化などによって居場所を奪われたシリアの難民たちの、14人もの人々を殺傷した、「イスラム」という何でも代入することのできるイメージを背負わされた人々が持つ、アメリカに対する憎悪なのだろうか。しかしその抗議は、空爆ではなく無言で立ち上がることで表現されたにもかかわらず……。