Outside

Something is better than nothing.

冬の酒

2014-06-28 [Cinestill 800][Shiba Meeting]

 冬よりも夏、夏よりも冬ということをそれぞれの季節に思うことになっていて、そう思わずにはいられないのは目先にある気温の暑い、寒いといった動物的な反応ということになるのだけれど、大体にして私は(あるいは私たちは?)目先の季節を愛でつつも嫌悪するようにできているらしい。季節の変わり目に、その訪れつつある季節の兆しを愛でることはあっても、感性の減退局面にある「現代人」とやらにはその余裕はもはやなく、日々の長時間労働や自然に対する知識の不足によって、もはや季節の何たるかを理解できないのではないか、と思うのだが、これは一般論としてではなく、自己分析の結果としての感慨であった。

 このほど気温が下っていく局面にあり、コートやらマフラーやら、あるいは女性ならば手袋を必要とするようになってきた。これは都内の話であるのだから、場所によってはそういった状態にはないのかもしれないのだけれど、通勤電車の車内にはいつの間にかマスク姿の男女問わない群れが一定数いるのだし、私もいずれはインフルエンザや風邪の予防のために彼らの仲間入りを果たしたいと考えている。クリーニングに出したコート類は、毎年のことだけれどもモッズコートのフードの付け方に迷うわけであるのだし、クリーニングの札(シール等)を取り忘れることもしばしばなのだった。

 一向に寒くならない十一月の初旬を前にして、といった詩をかつて私は書いたのだけれども、それは数年前の本当に寒くならない十一月の初旬だったので、その対比として「体温」を取り上げることになった。クリスマスの恋人や鍋をせっつく指先に、果たして寒さというスパイスがなければ……ということだったが、実際のところ、その後すぐに寒波が押し寄せてきて寒くなり、私はげんなりとした気持ちで寒さを迎えることになったのだった。

 さて、その頃の私はというと、職場のおっさんと一緒に毎日のように酒を飲みに行っていた。私と彼とは最初に出会った頃は、彼のその奇妙なシャイっぷりによって隔てられていたのだが、職場においてある一定の存在感を示す彼の存在は同僚たちの面倒の見るところとなり、コミュニティができあがっていた。同時に彼は酒を飲むのが好きだった。そして酔うと陽気になる彼は、飲み相手としては最適でもあった。ついでに言えば、おっさんの常というべきなのか分からないが、部下であり後輩でもある人間に対してはきっぷがよかったのである。

 だんだんと彼の世話をする人間がいなくなってしまい、最後に仲の良い同僚が異動してしまった後、彼の面倒を仰せつかったのは私だった。その頃からだろうか、彼とは頻繁に飲むようになったのは。飲んでは会社の愚痴を言い、上司の文句を言い……という典型的なビジネスパーソン的な飲み会だったのだが(と私は一瞬サラリーマンと書こうとしたのだが、PCを加味しなければこの語彙が文脈上は適切だったかもしれないと申し添えておく)、そのときに私は日本酒の味を覚えたのだった。

 どの飲み屋街にも必ず一軒はあるに違いない、日本酒の品揃えが妙に整っている居酒屋というのはあり、私たちが飲んでいた場所というのはビジネスパーソン御用達の界隈であったのだから当然なければおかしいというような按配ではあったものの、私は――つまり若造は、酒の味などまったく知らないといっても過言ではなく、というよりも「良い酒」を飲んだことがない、大衆居酒屋で一合三百円から五百円の間にある、いったいどんな銘柄なのか一応は書いているのだけれども決して覚えさせるつもりもない、ただ単に表示しただけ、の酒しか飲んだことがなかったのだから当然であった。

 加えて私は学生の頃から酒の(これは日本酒に限らず)種類についてウンチクを垂れるということに対して一種のアレルギー反応を持っており、酒など好きな面子と楽しく飲めればそれが美味い酒なのだ、という哲学を持っていたのだから当然といえば当然で、さらに言えば私は馬鹿舌を自称して憚らなかったので、「ふん、味など分かってたまるか」というマイナスの矜持さえ持っていた。

 自分に対するマイナスの信頼というものは、それがマイナスであるからこそ何らかの掛け算が働いてプラスに作用することもあるのだけれども、言うまでもなく味は分かっておくに越したことはない、というのが現在の感想である。

「君は良い酒を飲んだことがないんだねえ」とおっさんに言われるにつけ、すいませんと謝るしかないのだったが、それは負い目を感じていればこそであろう。ハイヤームは酒を飲むことが永遠の生命だと謳ったわけだが、まさにそれは正しい。そして、その身のうちに乾く暇もなく存在せねばならない酒が、美味いものであるに越したことがないというのは道理であろう。「ここは俺が日本酒を所望していたら、いつの間にか店長が酒にはまって、全国の酒を集めるに至ったのだ」と彼は言い、店長が笑いながら彼にこんなものを仕入れましたと言う笑顔を見ると、酒を媒介にしたコミュニティが形成されていることに驚きつつも、それは取りも直さず「良い酒」を巡るそれなのだ、という思いを強くした。

 彼のいいところは良い酒を前にしてウンチクを垂れるといった批評家然としたことは一切しなかったという点に尽きる。酒はただそれを飲み、味わうに尽きるのだと言わんばかりに、言葉通り彼は「堪能」していた。そして、堪能するための能力もあった。カウンター席で無言で酒を酌み交わすこと、そしてその酌み交わす酒が「良い酒」であること、たったこれだけの条件であるにもかかわらず、無限に豊かな時間が広がっていく。

 彼とは主に冬に酒を飲んだ記憶が多い。夏は彼以外の若い連中と飲むことが多かったのだけれど、冬に彼と酒を飲んでいると、体の中がぽかぽかとしてきて心地よい。おそらく気温の所為で体内に取り込んだアルコールが夏と比べてゆっくりと流れていくためだろう。夏は瞬間的に、そして享楽的になる傾向がある酔いが、冬では持続的になる。楽しみは永続することはないのだが、酒の見せる永遠が幻想なのではなく本物だと思わせてくる。

 ときおり私たちは酩酊の持続に任せて、別の店に行って朝まで飲んだ。あるいは、カラオケに移動して、そのまま歌いもせずに眠った。朝になると、ふわふわとした幻想世界から隔絶されて、私たちは地獄のような苦しみを味わうことになった。早朝の電車に乗るとき、同じような境遇の人が目についた。また、あるいはその夜のうちに解散したところで、私は終電に乗ってそのまま眠ってしまい、見知らぬ駅で途方に暮れることもあった。ここはどこなのだろうと思い、タクシーを使うという当然の発想もなぜだか思いつかず、スマートフォンを片手に家路で歩いて帰った。深夜の静まり帰っているはずの道中は魍魎たちの跋扈することとなり、私は彼らの行き交う旅路が面白かった。

 彼はしばしば時計の話をし、しばしば車の話をし、ときおり寂しそうにかつて人生を共に歩もうとした女性のことを語った。酒の酔いに任せて、私たちはたくさんの取り留めのない話をした。そのほとんどは、あの夜の中に仕舞われていて、昼の世界の私には分からない。

 人生におけるほんのひとときを、彼、そして酒と過ごしたことになるのだが、その後彼は早期退職してしまった。異動した後、誰も彼の面倒を見ることはなかったようだった。私たちにある年齢を越えた友情のようなものは、ゆっくりと消えていった。たまに会ったところで、おそらくそのときふたりを繋いでいた糸のようなものはすでになくなってしまったのだ。

 ただ、私の中には未だに酒に対する感性というものは残っている。そんな置き土産が、私には残った。

一合炊きの感覚

Rice Cooker

 一人暮らしを始めたときに、当然というような必要に駆られて私は炊飯器を買ったのだけれども、それは最大で三合程度まで炊くことができる代物で、その最大量は「も」がつくべきなのか、「しか」がつくべきなのか、私には判断がつかないのだけれども、初めての一人暮らし、一人でご飯を炊き、一人でそれを食べるということについて、私はそれなりの愉悦に浸っていた。

 愛用している、といっても、次第に不精者ゆえにご飯を炊く頻度は減っていき、例えば松屋などのファーストフード店に米を食べる機会は譲っていくことになったのだったが、それでも時折、気が向いたときには米を炊いた。

 大抵は二合炊いて、心ゆくまで米を食しては、残りを冷凍庫にしまっていたことになる。凍った米をレンジで温め直すと、妙にぱさぱさすることが多かったので、あまり好きではなかったのだけれども――それは私の米を炊くときの水加減の問題が多分に関連していることは承知している。

 備蓄が底をついたとき、私は米を一合で炊いた。あるいは、どうしても二合以上の米を炊きたくないとき、私は一合だけ米を炊いた。一人暮らしの最初期こそ、炊飯器は適切な炊飯を行ってくれていたが、安物の機械だったがゆえ、だんだんと米が適切に炊けなくなってきて、一度などほとんどおかゆとしか思えない状態の代物ができあがってしまった――水加減は適切だったにもかかわらず!

 それは決まって一合炊きのときに起こるのだった。二合か三合のときは、その不適切な炊飯は引き越されず、どうしてたか一合のときだけ引き起こされる。感覚的に二合以上でご飯を炊いたときの方が美味しいようだったから、炊飯器というものはそういう機械なのだと納得しようとしても、どうしても一合だけご飯を炊きたい瞬間というものはあるのだった(鍋で米を炊いたこともあったけれども、洗うのが面倒で止めてしまった)。

 先日、備蓄米が底をついたことをきっかけに、かなり久しぶりに一合だけ米を炊いた。今では家族がいるのだから、一合だけお米を炊くということはあまりないと思いつつ、私は米をとぎ、炊飯器にセットした。つい先日、糸こんにゃくご飯を作ろうとして失敗したことを、スイッチを押す瞬間に思い出しながら。

 今使っている炊飯器は結婚したときに母からプレゼントされたもので、携帯電話会社の貯まりに貯まったポイントをすべて使って、それなりに高級なものを贈ってくれた。

 果たして、その炊飯器で炊いた一合の米は――やはり、あまり美味しくはないようだった。

10月の振り返り(Stairway 10)

Guns

 早いものでもう11月になろうとしている――と書こうとして、これはあくまで定型文なので、ほとんど何も考えずに打ち込んでいこうとしたのだが、しかし季節の巡りというものは常に早いものであるような気がしていて、それは単に時間の流れがそういうものなのか、あるいは我々の時間認識や記憶が過ぎ去った時間について、今現に感じている時間に比して、一瞬のものであるように錯覚させるのか、いったいどういうことなのだろうと考えつつ、10月という月日も過ぎてしまい、今に至っている。

 例によって資金決済の関係と、スルガ銀行の処分、そして金融庁主導で始めた金融機関の共通KPIが私の中ではまず気になったのだが、まあ、ちょっとはそれは職業に基づく関心になりすぎるのかもしれない。

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 個人的にはこの共通KPIをどう利用者の資するように取り組んでいくのかが問題かと思われ、昨今のFDの観点からこういう発想になったのだろうが、システム的にどこまでの対応が可能なのかどうか――というやや抽象的に書く。

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 この6ヶ月という期間が長いのか短いのか分からないのだが、同時にスルガ銀行の株安を受けて個人投資家スルガ銀行の株を購入しているという動きも、高リスクということで危険視されていた。

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 これについては利用者目線で言えば、今までなぜというところだっただろう。24時間の即時振込ということは、同一の銀行口座間であればおおむね対応できていたのではないかと思うのだが、全銀システムって何、という気もする。SWIFTももう少しマシになるみたいなので、銀行の決済サービスは多少は改善される傾向にあるのかもしれない。

 また、米国の株安についても気になった。個人的にはあまりマーケットの動きについては専門性が高くないので、通り一遍の認識(しかも事後的なもの)しか持てないのだが、10月後半は市況が荒れていた。儲けた人は儲けただろう。

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 繰り返しとなってしまうそのものに深い憂慮を覚えつつも、アメリカでまたしても銃乱射が起こった。

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 私はかつて「信じがたい憎悪」というエッセイを書いたことがある。これは大統領戦の演説中に、シリアからの難民はすべて「イスラム国」のテロリストだとトランプが述べたことに、「イスラム教の女性」がただ無言で立ち上がることで抗議したとき、トランプが「信じがたい憎悪を向けられた」と述べたことに起因した記事である。

 今回の銃乱射事件を受けてトランプが述べたことはこの「信じがたい憎悪」のトランプの態度にかなり近いものがあろうかと思われる。

 トランプ大統領は28日、インディアナイリノイ両州での複数の選挙イベントに向かう前に事件を激しく非難、記者団に対し、「率直に言って私たちの国で、そして世界各地で憎悪によるとてもひどいことが起きている」とし、「何かがなされなければならない、人々がこうしたことをすれば死刑を受けるべきだ」と話した。

 トランプ大統領は銃所持の権利を認める法律を見直す時かと問われると、武装した警備員がこのシナゴーグに配置されていれば犠牲者の数がはるかに少なかったかもしれないと示唆した。報道によるとこのシナゴーグではユダヤ教の大祭日の際のみ武装警備員が配置されているという。(上記記事より引用――太字・下線は筆者)

  これについて細かく述べたい思いもあるのだが、取り急ぎ引用に留めておこう。出生地主義の廃止検討やトランスジェンダー排除、また万国郵便条約からの離脱、中距離核戦力(INF)廃棄条約の破棄等、いろいろとあるのだが、さすがに書き切れなかった。

 

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