Outside

Something is better than nothing.

『DEVILMAN crybaby』(2018年)

 湯浅政明の『DEVILMAN crybaby』を観る。Netflixオリジナル。

 不動明は心優しい少年で、他人への共感能力が強いことから、悲しいことを目にすると途端に涙を浮かべる。彼は両親が海外で働いているため、牧村美樹の家に居候状態となっている。美樹は陸上部のエースで、そのビジュアルからメディア露出もひっきりなしに行われており、グラビアでの撮影もあるほどのスター選手だった。美樹が家に帰ろうとしていたところ、近所でラッパーとして活動しているワムを初めとする連中に絡まれているところを不動明が人魚と言って登場し、彼らが突っかかろうとしたところに、飛鳥了が現れる。彼は懐からマシンガンを取り出し、彼らに威嚇発砲した後、「明、お前が必要なんだ」と言って、明と共に車で走り去る。飛鳥了不動明は幼なじみだったのだ。車の中で飛鳥了は近頃、アスリートたちの間でサバトと呼ばれるイベントが行われ、その中で怪しげな薬を飲むことで人間を超えた能力が得られる、という噂話について触れる。これは現代に蘇った悪魔の仕業なのだ、と言って。彼はフィキュラ博士が南米で悪魔化した様子を語り、サバトの現場に行くと、血を呼び込むと言って参加していた連中に無差別に攻撃を始め、興奮した人々の一部が悪魔となって変容する。飛鳥了はその様を撮影するが、自分自身も窮地に立たされる。不動明もまた窮地に立たされるが、そこで彼の中にアモンという悪魔が宿り、人間の心を保ったまま悪魔となった「デビルマン」が誕生する。飛鳥了デビルマンこと不動明は、悪魔殺しのために活動を開始する。不動明の外見や性格は、デビルマン化してから一気に変わってしまい、あらゆる欲望が強力になっている。美樹の陸上部の友人ミーコは美樹に嫉妬を募らせ、美樹のグラビアもといヌードを撮りたい記者は、自分の夢を諦めきれず、ラッパーの一人は劣等感に苛まれるミーコに恋をする。しかし、彼ら彼女らの間にも悪魔は忍びより、数々の悲劇を生む。そして不動明の母親もまた、悪魔と化した父親に殺されてしまう。同時に、悪魔側もアモンとしてのアイデンティティを失ったデビルマンの存在に気づき、訝しむ。飛鳥了は冷徹に悪魔を殺戮し、関係していった単なる人間をも消していく。その行動に不審を抱きつつも、不動明飛鳥了の悪魔を根絶やしにするとの考えを信じ、行動を共にする。だが、陸上競技中に選手のひとりが薬物によって強制的に悪魔化させる案を飛鳥了が採用したとき、何かが決定的に変わり始める。世間の衆目に曝されることになった悪魔の存在は、相互不信を招き、「悪魔」というレッテルを他人に貼りつけ、無条件かつ一方的に排斥する暴力となって表出する。街は荒廃し、自警団が現れ、人々は互いに不信感を持って暮らすようになる。そしてその魔の手は牧村家にも訪れ、美樹の弟までも悪魔化してしまった。母親は弟を庇うために家族を捨て逃避行を始め、父親は母と息子を探し求めて、危険な街へと繰り出していく。しかし、そこで父親が見つけたのは、己が母親を欲望に任せて食す息子の姿だった。父親は苦悩の末に母親もろとも息子を殺そうと銃を握るが、そこに軍隊が父親もろとも銃撃を浴びせかける。デビルマンは咆吼するが、人々の熱狂は止まない。飛鳥了はその頃、自分の記憶に齟齬があることに気づく。南米に発ち、フィキュラ博士の痕跡を探し求めるが、そこに自分のルーツがあることに気づく。飛鳥了は日本政府の発表として、人間こそが悪魔の元凶であり、強い不満を持つ者が悪魔化するのだと相互不信を煽る発言をし、さらにはその例として不動明デビルマン化する様子を、編集によってまるで不動明が殺戮行為を行ったかのような映像を流す。そのことにより家族を失ったばかりの牧村家にも、暴徒が押し寄せる。だが、美樹はデビルマンとしての不動明を受け入れ、愛を信じる。しかし人々の不信は、憎悪は、止むことがない。牧村家に暴徒が侵入し、デビルマンがいない間に、ラッパーたちは人間を信じて戦うが敗れ、悪魔と化したミーコもまた最後には美樹との友情を取り戻し、人間の側についたものの、そして何より人間に対し信を問うたにもかかわらず追い詰められ自殺し、牧村美樹という人類の愛を信じた人物も、暴徒によって殺されてしまう。人間による憎悪に基づくサバトが行われ、彼らの四肢が切断され、炎の前で彼らは踊り狂う。一足遅く戻ったデビルマンは、その様子を見て、ふたたび咆哮を上げる。「お前らこそ悪魔だ」と。デビルマンは美樹が愛をもって世界へ発信した不動明と同じ「デビルマン」を集めて、悪魔の主サタンとして記憶を取り戻した飛鳥了と対峙する。戦いは熾烈を極めるが、人間は悪魔に追い詰められていき、あと一つの拠点が残る、という状況まで追い詰められてしまう。不動明ことデビルマン飛鳥了と最終決戦に望むが、激闘の末にデビルマンは下半身を失い、飛鳥了は人間の頃、そして幼い時分、不動明と出会った頃のことを回想する。語りかける言葉に、不動明はもう何も応えない。

 原作は未読で、永井豪と言えば、なぜか家にあった『ダンテ神曲』上下巻の印象が強く、しかもそれは私にとり、非常に強烈なイメージを植えつけるに至ったので、『デビルマン』も覚悟はしていたのだが、最終話に至るまでに、どうしようもないほどに強い衝撃を受けた。

 湯浅政明の演出や大河内一楼の脚本はスタイルがあり、同時に声優たち、そして何よりもラッパーたちのフリースタイルには強靱さがあった。フリースタイルの導入は最初こそ戸惑いがあったが、聞いているうちに日本語ラップとしての深化を感じ、個人的には大満足であった。また、もちろん電気グルーヴの「MAN HUMAN」も最高。

 後半に至るにつれて残虐の度合いが高まってくるのだが、これは映像によるリアリズムの延長としての残酷さではなく、もっぱら心理的なものであり、この荒廃こそがある種、残酷さの極致にあるものなのだろう。実際、牧村美樹が殺されるシークエンスにおいては、後に特別エンディング「今夜だけ」でやや緩和される向きもあるものの、単なる感情の表出を超えた恐ろしさが宿っているように感じられる。

 最終話に至っては抽象度が高まり、その中で飛鳥了の悪魔として初めて感じる愛――サタンは両性具有として描かれており、その完全体がゆえに「愛などない」ということを述べているのだろうが――の戸惑いを、半身を失ったデビルマンこと不動明の描写によって衝撃をもって映し出している。

 考察を行うには多様な鑑賞の余地があり、素晴らしい作品だと断言できる。ただ、これを好みだというにはなかなか難しい選択であり、というのは私はもっともっと安逸の世界にいたかった、という思いがあるのだった。これは要するに単なるアニメーションに留まらなかった、ということだし、もっと翻って言えば映像の枠組みをはみ出る何かがあった、ということなのだろうと思う。