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Something is better than nothing.

『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』(2019年)

ワイルド・スピード/スーパーコンボ (字幕版)

ワイルド・スピード/スーパーコンボ (字幕版)

  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: Prime Video
 

 デヴィッド・リーチの『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』を観る。

 イギリスはロンドンで、MI6のエージェントであるヴァネッサ・カービー演じるハッティ・ショウは、「スノーフレーク」と呼ばれるウイルス兵器の回収任務を遂行中に、突如としてイドリス・エルバ演じるブリクストンという謎の男に襲撃され、仲間を殺される。咄嗟の判断で彼女は自分の体内にウイルスを打ち込み、その場から逃げることに成功するが、ブリクストンの手によって彼女が裏切り、仲間を殺されたことにされてしまう。CIAのエージェントであるライアン・レイノルズ演じるロックはこの世界の危機に対し、ドウェイン・ジョンソン演じるルーク・ホブスと、ジェイソン・ステイサム演じるデッカード・ショウに任務を依頼するが、二人は犬猿の仲なので反りが合わない。しかし、地下に潜ったハッティを探す中で、彼女はデッカードの妹であることが判明し、なおかつ何か因縁があることが仄めかされ、またブリクストンという男はかつてデッカードが射殺したはずの男であったことが明かされる。ブリクストンはエティオンという謎の組織に所属しており、機械とAIの力をまとったスーツを着用した結果、人間の身体能力を遙かに凌駕した存在として生まれ変わったのだった。そして「スノーフレーク」を悪用し、人類を破滅させることで浄化するという目的のため、ハッティの体内に打ち込まれたウイルスを抽出するために彼女を執拗に追跡することになる。しかし、ホブスとデッカードの側も、ハッティのウイルスを除去しなければならないため、敵の研究所に潜入し、ウイルス抽出装置を奪取しようとするが、研究所からの脱出時に機械が壊れてしまう。絶望する面々だったが、ホブスの故郷にいる兄ならば直すことができると、サモアに行き、久しぶりの対面(殴打される)を果たした後、最後の決戦が始まるのだった。

 基本的にこのシリーズは好きで、今のところすべての作品を観ているのだが、この作品はかなり大味な印象があり、所々、強烈に好きなシーン、シチュエーション、ガジェットは出てくるのだが、総合的に見たときには何だかなあ、と思わなくもない作品に仕上がっている。それは、当然本家の「ファミリー」というものの外側にいる人々(ホブス、ショウ)のストーリーだから、ということなのかもしれないし、この「ファミリー」の外側に、別のファミリー(ホブスの、ショウの)の話を展開されても、それはもはや「ワイルド・スピード」ではないだろう、という冷たい認識があるからなのか、とも思われる。

 それにしてもブリクストンの超人的な、というよりは超人によるアクションは相当に見所があるわけで、また最後のサモア決戦におけるヘリコプター連結からの、ニトロ噴射などは、正直なところ感動した。だからこそ、ということではないのだが、ここでは「ファミリー」の存在が逆説的に邪魔で、我々は画面を観ながら壮絶かつ最高度に面白いアクションを見せられながら、「一体何を観ているんだろう」という気にもさせられる。

「ファミリー」のヒストリーは、我々がよく知るように、ここで言うサモアの熱帯的なものだけ(あのいかにも「お母ちゃん」的なホブスの母親に象徴されるように)、というわけではなく、例えばポール・ウォーカー演じるブライアン・オコナーの(二重の意味での)「不在」というものが、本当の家族にある別れや悲しみのように通底していたはずであって、それは彼の「不在」以前にも誰かの不在、後悔、過去のしがらみといった形であったのではないか、と思わなくもない。それがこのシリーズのヒストリーを織りなす、ただ表面的なアクションの面白さだけではない、「ファミリー」というものだったように、私は思う。

 繰り返すが、私はこの映画自体を結構面白く観ることはできたのだが、他方で「何を観ているんだろう」と疑問に思ったのも事実なのである。

異常時といくつかの断片

fragment

 新型コロナウイルスに係る各種の対応で疲れ果てている中ではあるものの、私の仕事が緊急事態宣言を受けての自粛要請のあった業種ではないがゆえに、延々と働き続け、四月という平常時であっても異常なくらい忙しい時期であるにもかかわらず、異常時にあって異常なくらいに忙しい時期になってしまった、ということは記憶しておきたい。書店で何か気の利いた批評でもするかと本を繙こうと思えば、書店は閉まっているしそもそもAmazonですらKindle本以外は入荷未定になっていたりするので、仕方なくペスト (新潮文庫)……ではなく、ペスト (中公文庫)Kindle版を買ったりする始末であったのだが、それを読むような気力はペスト禍ではなくコロナ禍(しかしこれを「うず」とは読まないのだ、というような記事すら目にする始末で、それもコロナ禍以前にどうなのか、と思わなくもないのだが、つまりコロナの「渦」であったとしたら、それは遍く人々が巻き込まれるがゆえなのだ、とくらい言い返せるならば納得もしよう)の状況ではなく、数年前に買った金井美恵子猫、そのほかの動物 (金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 2 (全4巻))を読んで、異常時にあって平常時のささやかな跳躍を垣間見せてくれるような猫の平穏さに心を馳せて緊張を解すのだったが、それにしてもコロナ禍の終息ないし収束は訪れる気配もなく、緊急事態宣言の延長可否についてもGW中になるかもしれないという待ち焦がれるというよりは今後の業務運営上の輻輳を見据えた恐怖感しか抱かないので、これはある意味で自粛を本来とする政府ないし自治体の思う壺なのではないかとも思うのだが、しかしそれは不可視のウイルスと未知の病に対するものというよりは既知の問題であったはずなのである。

 ところで、アフター・コロナだとか歴史の中にいるとか、あるいはその他の言説を目にしていると、未だ終わっていない事態に対する繊細さの欠如といったものを感じずにはいられないのだが、今この瞬間に何も解決されておらず、そしてこの瞬間において苦しむ人々がいる中で、「歴史」というものにまつわる七面倒臭さとその厳かな傲慢さについてやや苛立ちのようなものを、例えば仕事が遅くなってほとんど誰もいないに等しい地下鉄の一車両に乗り込みながら不衛生なスマートフォンの小さな画面を前に溜息をつくことになるのだが、そんなときでもささやかなひとときというものは訪れて、それは例えば星野源を聞きながら「恋」が流行ったときの新垣結衣は可愛かったなあと思いを馳せるときのことなのである。

 ただこの数多の言説の中でも、やはり読んでおいてなるほどと思う記事はいくつかあり、例えばそれは「『平常に戻る』ことはない」と題されたイギリスNESTAのレポートを翻訳したものであって、これは確かに今後の某かを考える際に非常に興味深いものであった。

 ここで述べられた事柄の真偽など誰にも判定しようがないので、あくまでそれを読み、各々の知見によって解釈していくしかないのだが、このコロナ「渦」によって我々の社会分化的文化的政治的法的技術的環境的な「世界」というものはぐるぐると巻き込まれ完全に変わってしまうがゆえにコロナ禍なのだ、ということを考える。

 私はこのコロナ禍について楽観的というよりは悲観的ではあるものの、それは地政学的なものであって、巨視的な視点に立てば多少なりともは楽観的に考えているのは事実で、しかしそれは歴史という現在起こっている出来事を過ぎ去ってしまったものと錯覚するような耄碌とはまったく異なるものであるとは言い添えておきたい。

 個々人の「自由」に対する束縛が、自粛という形で、例えばこの「粛」は当然に粛正や粛清に繋がるようなどことなく白い暴力的なイメージにも繋がる言葉によってもたらされ、それが常態化しかねない現在時というものが、果たして公衆衛生的な観点のみから見たときに合理性はあったとしても倫理的なのか、ということについては、たまたま本日読んだ歌舞伎町のホストたちに対するホストクラブへの「経営姿勢」という記事でも感じられた。

 一方で、他方で、という見方が存在することは重々承知であり、その上でこの舵取りについてはもはや政治的な判断(例えば医者や医療系、感染症系研究者等がすでにメディアで「政治的」「経済的」な発言を行うことがあまり不思議ではなくなっているが、本質的には責任を持たない/持てない分野であったはずである)が前提であり、前掲の「『平常に戻る』ことはない」に戻れば、「オヴァートンの窓」(人々が政治的な思想等を許容できる範囲)はとてつもなく広くなる。

 今のところ、というよりはいつのときも我々はヴォルテールに習えば、「自分の畑を耕すしかない」(カンディード (光文社古典新訳文庫))のであって、ともすれば見失いがちの「自分の畑」を耕すために、来たるべき時に備えて鍬を磨いておくしかないのかもしれない。

金木犀の香り

A fragrant orange-colored olive

 取り立てて具体的な思い出と結びつくわけでもないのだが、とりとめのない日常の中に金木犀の香りがやってくる瞬間というのはあって、例えば地元にいたときのことではあるが、私は犬の散歩をしているとき、ふと香しいものを感じたと思ったらそれは金木犀であった、というような些細なものだ。

 最近使っている入浴剤の中で、金木犀の香りがするのを使っているからなのか、別に秋口でもないのに金木犀を感じてふと犬の散歩を思い出す。香しいものではあるのだが、その甘ったるい香りはどことなくいやらしさも感じさせるのであって、いやそもそも花の香りというものはそういうものではなかったか、と思うのだが、しかし犬の散歩で思い出すというのは犬の糞尿を想起するということでもあって、記憶というものは常に綺麗なものではないらしい。

 なんだか懐かしい気持ちもするのだが、秋口の金木犀というときには秋口の空気感、冷気が少しずつ忍び込んできて、私は特に掌がむくんだようにパンパンになってしまうということを思い出す。

 途方もない茫漠さを湛えた地元ではあるが、そこは小さな島であって、なぜそこが茫漠なのかということはある種のアリス症候群めいたものではあったのだろうと推測はできるのだが、私はそこで犬を連れながら秋口、どこまでも広く延びていく世界を感じた。金木犀の香りとともに。