Outside

Something is better than nothing.

同語反復的な、忙しさ

 

Busy

 むしろ師走よりも忙しかったのではないか、と思わなくもない、おそらく多くの企業では閑散期とでもいうべき時節であろう二月を過ごした後、私は未だかつて経験したことがない残業量をこなし、いざ給与明細を確認すると、何のことはない、今年度の四月の方が忙しかったではないか、と思ってしまった三月の給料日を前にして、忙しいから忙しいのだというような同語反復的な忙しさを、さも当然のように甘受している自分のだらしない現状認識に思いを馳せる。忙しいから仕方がないね、といったような父や母といった人間からの何らかの催促に応対したり、妻に対して今は忙しいからというような言い方をするとき、それは言わばマネジメントの問題に帰すべきものなどではなく、それは本質的な時間のあり方の相違がここにあるのではないか。私にとって忙しいとは、常にそうあるように、仕事が終わらないということにあって、それは仕事の濃淡だとか、期限とかそういったことではない。のかもしれない。結論は曖昧になっていき、やがてそれすらもどうでもよくなってくる酒の酩酊だけが、私をゆるやかに弛緩させていき、脳を痺れさせていくのだが、私はそのとき仕事が忙しい状態から何か一歩でも外に出ているのだろうか。

 Lo-Fi Hip HopとかChill popといった脳を弛緩させ麻痺させるような音楽が部屋の中を充満し、それはYouTubeの永遠の海からもたらされるが、波は寄る辺なき彼方から押し寄せてきて、寄せては返し、音楽の背景にある乏しい動きのアニメーションは、少しずつの変化を伝えて、確かにそれは穏やかな波を表現している。いつまでも続く音楽の中には、メロウな情緒はあるが、サウダーデはない。郷愁のない都市的な音楽。

 時間は曖昧にその顔を持っている。忙しい時間の持つ顔は、距離の形を備えているが、それは締切や期限、約束や契約に縛られた遠い近いといった関係性であり、その果てに人と人を繋ぐものがある。

 Prime videoで延々と、視聴できるところまで『名探偵コナン』を観ているのだが、これらのエピソードは少なくとも三回は観ているはずで、どうしてこれを延々と観ているかというと、これはまさしくChillなアニメーションなのかもしれないのだが、これはこだま兼嗣の演出のなせる技なのか、サウダーデのなせる技なのか、観ていると落ち着くのだが画面の中で展開されているのはただただ殺人事件ばかりで、人が死ぬ様を見て心が落ち着いているのは、どこかおかしい。

 新コロナウイルス(COVID-19)の流行は、もちろん人的損失――という表現をさも当たり前のように記したが、この人的損失という言葉はどこかおぞましい――が大きいが、経済的な損失も大きい。当然のことであるがマーケットが大荒れであり、我が家の資産状況も極めて悪化している。この極めてというのは、ある種の前提が、ということなのかもしれない。私も今回の事態を受けて思ったことだったが、この立っている地面が永遠に揺れることはなく、ましてや崩れるはずもないということだ。そしてこれは、二〇一一年三月十一日に私自身が経験したことを忘れている、ということだ。この楽観的な大地への信頼は、我々の母体が暗い宇宙の中を漂っていることの裏返しなのだろうか。

夢の橋

bridge

 瀬戸内海の穏やかさは、今思うと少し何もなさすぎるような気が無責任にもする、という書き出しで私は今朝方夢を見たことの、その続きとして、あの海の穏やかさを想起したのだが、夢の中で私は尾道大橋を自転車で通行しようとしていてーーそれ自体は頻繁にあるとは言わないにしても、ままあることなのだがーー友人と一緒に料金所に差し掛かろうとしていた。料金所というのは、詳しいことは知らないが、とにかく今はもうない、尾道大橋が造られたときにその建設費用を日々そこを通る市民の懐から賄おうとするもので、ほとんど通行税のような機能を果たしていたのではないかと思うのだが、私が地元を出てしばらくすると、ようやく積年の費用を充当し終えたのか役目を終えることになった場所のことで、私が自転車をわざわざ漕いで橋を通っていたその当時というのは、十円、たった十円ではあるが、通行にあたってお金を支払わなければならなかった。けれどもその料金所というのは、自動車とは異なり、立ち会うべき監視員というか徴収人というか、とにかく人がおらず、無機質なアルミ製の箱がぽつねんと置かれており、人々の善意によって成り立っているような馬鹿げたもので、もちろん真面目の前にあまりよろしくない言葉がつくような人種でなければ、ほとんど払うことはなかったのかもしれないし、小狡さを身につけた子供たちは人々の注意を引かぬようにそこで十円を払ったふりをして通行していた。私は夢の中でまさにその多くの技巧が凝らされることになった料金所を通ろうとしており、友人はいつの間にか遠くで手招きし、向島側の、少し先に行ったコンクリート屏とその上に生い茂った茂み、そして信号の辺りで角を曲がろうとしており、私はなぜだか置いていかれるような、そんな焦燥感を抱いていたのだが、そのときに限って私の懐には十円がなく、つまり通行税を払うための、あの些細な銅貨がなかったがために、未だかつてその場所で抱いたことのない道徳的な躊躇いが生じ、私は自転車を止めてしまった。心なしか、友人は失望したように見えた。そして友人は角を曲がって見えなくなり、私は途方に暮れてその場に佇んでいた。

その場しのぎの靴

shoes!

 須賀敦子の『ユルスナールの靴』の冒頭には、「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。」(白水uブックス、P.11)という言葉が置かれている。私はこの言葉を読んだ瞬間に気に入って、後でメモに残しておこうと付箋を貼ったのを覚えているのだけれども、その言葉の意味を考えたことはもしかするとなかったのかもしれない。けれども、胸の中にエコーのように言葉が残っていて、ふとした瞬間に思い出されることが多く、そしてようやくこの言葉について本腰を入れて考えてみようと思ったのは、一年ばかり時間が過ぎてからのことだった。

 先日、私は妻と買い物に出かけた。用向きは靴を買うためであった。妻は歩きやすい靴を欲しており、私はそれを買う立場にあった。いわゆるクリスマスプレゼントというものである。アシックスの店に行き、妻はあれこれを靴を選んでいたのだけれども、そのときにふと私も靴を買おうと思い至った。

 私はあまり靴にこだわったことはない。とりあえずサイズが合って履ければいいや、と思うのがせいぜいで、時たま革靴を買ったときに豆ができて痛いとか、あるいは穴が空いたとか、そういうことでも起きないと靴を意識したことはないし、できる限り安いものを買えばいいと思っている。

 妙に靴にこだわりを持つ人と話していると、奇妙な気分になってくるものだ、と私は思うのだが、同時に有名な話として靴と足の心理学的な象徴を考えると、なるほどなあと思うときもある。

 冒頭の須賀敦子の言葉については、私は読んだときに少し飛躍して物事を考えていたように思うが、それは例えば「足下を見直す」と言ったときに、人は本当に自分の足下――例えば靴の脱ぎ方や自分の履いている靴が汚れているか否か――を見直すわけではない、ということと同義だろうと思う。

「きっちり合った靴」というものは、まさしく自分の肉体にフィットする代物であろうと思うのと同時に、おそらく人はこの部分を何か象徴的な「靴」として判じているはずで、私はこれを読んだときにその二重性について少し思いを巡らしていた、のかもしれない。

 いや、実際のところ、この文章を読んだ次に考えることと言えば、「じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。」ということの物理性とその虚構であるはずで、「きっちり合った靴」と「歩いていける」ということの連関は、「歩く」ことの抽象性――それは一体何の上(どこ)を?――に繋がっていく、のかもしれない。

 私は今、GUにいて、先日というよりは何年か前に買ったスリッポンの履き心地がよかったものだから、その替えを今こそ買うべきときなのかもしれない、と須賀敦子の文章を思い出して買おうとしているのだが、この即物性というか物理性のようなものが、果たして本当に須賀敦子の射程にあったのかどうかについては実際のところ、さほど興味はなくて、文章というものはそういうものなのだ、というテクスチャーというか、そういう引っかかりというか、そういうものにこそ本当に興味がある、のかもしれない。

 本腰を入れて考えてみようと思った須賀敦子の「靴」にまつわるこの一連のうだうだした文章は、けれども実際のところ私の物質的な側面と、精神的な側面の二面を表すと同時に、これを読むあなたの二面も表している。

(当たり前の話だが)一つは、「きっちりと足に合った靴」の実在の有無と、その象徴的な「靴」の存在の有無である。もう一つは、「どこまでも歩いていけるはず」という思いの、歩く物理的な場所と、精神的な目標(ゴール)である。

 結局、私はGUでスリッポンではなくスポーツ用のシューズ(990円!)を買った。実に履き心地の良い、「きっちりと足に合った靴」である。そして「どこまでも歩いていけるはず」という確信に沿い、私の正月はウォーキングに明け暮れることになった。トルコの交流館に行き、モスクの中を見学できたのでそこを見学していたのだが、あまりの美しさに正月早々に良いものを見せてもらったと感激したのだった。

 人によっては前者の方が難しいかもしれない。人それぞれに足のサイズは違うのだし、私がそうなのだが、右足は中学生のときの部活で捻挫した所為で足の甲が少し盛り上がっていて疲れると痛くなってしまうのだが、そういった個々の肉体的な事情のために。けれども、私にとっては後者の方がより難しい。そして、この「靴」がないばかりに、私はどこにも行けた気がしないままでいる、のかもしれない。