Outside

Something is better than nothing.

金木犀の香り

A fragrant orange-colored olive

 取り立てて具体的な思い出と結びつくわけでもないのだが、とりとめのない日常の中に金木犀の香りがやってくる瞬間というのはあって、例えば地元にいたときのことではあるが、私は犬の散歩をしているとき、ふと香しいものを感じたと思ったらそれは金木犀であった、というような些細なものだ。

 最近使っている入浴剤の中で、金木犀の香りがするのを使っているからなのか、別に秋口でもないのに金木犀を感じてふと犬の散歩を思い出す。香しいものではあるのだが、その甘ったるい香りはどことなくいやらしさも感じさせるのであって、いやそもそも花の香りというものはそういうものではなかったか、と思うのだが、しかし犬の散歩で思い出すというのは犬の糞尿を想起するということでもあって、記憶というものは常に綺麗なものではないらしい。

 なんだか懐かしい気持ちもするのだが、秋口の金木犀というときには秋口の空気感、冷気が少しずつ忍び込んできて、私は特に掌がむくんだようにパンパンになってしまうということを思い出す。

 途方もない茫漠さを湛えた地元ではあるが、そこは小さな島であって、なぜそこが茫漠なのかということはある種のアリス症候群めいたものではあったのだろうと推測はできるのだが、私はそこで犬を連れながら秋口、どこまでも広く延びていく世界を感じた。金木犀の香りとともに。

同語反復的な、忙しさ

 

Busy

 むしろ師走よりも忙しかったのではないか、と思わなくもない、おそらく多くの企業では閑散期とでもいうべき時節であろう二月を過ごした後、私は未だかつて経験したことがない残業量をこなし、いざ給与明細を確認すると、何のことはない、今年度の四月の方が忙しかったではないか、と思ってしまった三月の給料日を前にして、忙しいから忙しいのだというような同語反復的な忙しさを、さも当然のように甘受している自分のだらしない現状認識に思いを馳せる。忙しいから仕方がないね、といったような父や母といった人間からの何らかの催促に応対したり、妻に対して今は忙しいからというような言い方をするとき、それは言わばマネジメントの問題に帰すべきものなどではなく、それは本質的な時間のあり方の相違がここにあるのではないか。私にとって忙しいとは、常にそうあるように、仕事が終わらないということにあって、それは仕事の濃淡だとか、期限とかそういったことではない。のかもしれない。結論は曖昧になっていき、やがてそれすらもどうでもよくなってくる酒の酩酊だけが、私をゆるやかに弛緩させていき、脳を痺れさせていくのだが、私はそのとき仕事が忙しい状態から何か一歩でも外に出ているのだろうか。

 Lo-Fi Hip HopとかChill popといった脳を弛緩させ麻痺させるような音楽が部屋の中を充満し、それはYouTubeの永遠の海からもたらされるが、波は寄る辺なき彼方から押し寄せてきて、寄せては返し、音楽の背景にある乏しい動きのアニメーションは、少しずつの変化を伝えて、確かにそれは穏やかな波を表現している。いつまでも続く音楽の中には、メロウな情緒はあるが、サウダーデはない。郷愁のない都市的な音楽。

 時間は曖昧にその顔を持っている。忙しい時間の持つ顔は、距離の形を備えているが、それは締切や期限、約束や契約に縛られた遠い近いといった関係性であり、その果てに人と人を繋ぐものがある。

 Prime videoで延々と、視聴できるところまで『名探偵コナン』を観ているのだが、これらのエピソードは少なくとも三回は観ているはずで、どうしてこれを延々と観ているかというと、これはまさしくChillなアニメーションなのかもしれないのだが、これはこだま兼嗣の演出のなせる技なのか、サウダーデのなせる技なのか、観ていると落ち着くのだが画面の中で展開されているのはただただ殺人事件ばかりで、人が死ぬ様を見て心が落ち着いているのは、どこかおかしい。

 新コロナウイルス(COVID-19)の流行は、もちろん人的損失――という表現をさも当たり前のように記したが、この人的損失という言葉はどこかおぞましい――が大きいが、経済的な損失も大きい。当然のことであるがマーケットが大荒れであり、我が家の資産状況も極めて悪化している。この極めてというのは、ある種の前提が、ということなのかもしれない。私も今回の事態を受けて思ったことだったが、この立っている地面が永遠に揺れることはなく、ましてや崩れるはずもないということだ。そしてこれは、二〇一一年三月十一日に私自身が経験したことを忘れている、ということだ。この楽観的な大地への信頼は、我々の母体が暗い宇宙の中を漂っていることの裏返しなのだろうか。

夢の橋

bridge

 瀬戸内海の穏やかさは、今思うと少し何もなさすぎるような気が無責任にもする、という書き出しで私は今朝方夢を見たことの、その続きとして、あの海の穏やかさを想起したのだが、夢の中で私は尾道大橋を自転車で通行しようとしていてーーそれ自体は頻繁にあるとは言わないにしても、ままあることなのだがーー友人と一緒に料金所に差し掛かろうとしていた。料金所というのは、詳しいことは知らないが、とにかく今はもうない、尾道大橋が造られたときにその建設費用を日々そこを通る市民の懐から賄おうとするもので、ほとんど通行税のような機能を果たしていたのではないかと思うのだが、私が地元を出てしばらくすると、ようやく積年の費用を充当し終えたのか役目を終えることになった場所のことで、私が自転車をわざわざ漕いで橋を通っていたその当時というのは、十円、たった十円ではあるが、通行にあたってお金を支払わなければならなかった。けれどもその料金所というのは、自動車とは異なり、立ち会うべき監視員というか徴収人というか、とにかく人がおらず、無機質なアルミ製の箱がぽつねんと置かれており、人々の善意によって成り立っているような馬鹿げたもので、もちろん真面目の前にあまりよろしくない言葉がつくような人種でなければ、ほとんど払うことはなかったのかもしれないし、小狡さを身につけた子供たちは人々の注意を引かぬようにそこで十円を払ったふりをして通行していた。私は夢の中でまさにその多くの技巧が凝らされることになった料金所を通ろうとしており、友人はいつの間にか遠くで手招きし、向島側の、少し先に行ったコンクリート屏とその上に生い茂った茂み、そして信号の辺りで角を曲がろうとしており、私はなぜだか置いていかれるような、そんな焦燥感を抱いていたのだが、そのときに限って私の懐には十円がなく、つまり通行税を払うための、あの些細な銅貨がなかったがために、未だかつてその場所で抱いたことのない道徳的な躊躇いが生じ、私は自転車を止めてしまった。心なしか、友人は失望したように見えた。そして友人は角を曲がって見えなくなり、私は途方に暮れてその場に佇んでいた。