Outside

Something is better than nothing.

その場しのぎの靴

shoes!

 須賀敦子の『ユルスナールの靴』の冒頭には、「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。」(白水uブックス、P.11)という言葉が置かれている。私はこの言葉を読んだ瞬間に気に入って、後でメモに残しておこうと付箋を貼ったのを覚えているのだけれども、その言葉の意味を考えたことはもしかするとなかったのかもしれない。けれども、胸の中にエコーのように言葉が残っていて、ふとした瞬間に思い出されることが多く、そしてようやくこの言葉について本腰を入れて考えてみようと思ったのは、一年ばかり時間が過ぎてからのことだった。

 先日、私は妻と買い物に出かけた。用向きは靴を買うためであった。妻は歩きやすい靴を欲しており、私はそれを買う立場にあった。いわゆるクリスマスプレゼントというものである。アシックスの店に行き、妻はあれこれを靴を選んでいたのだけれども、そのときにふと私も靴を買おうと思い至った。

 私はあまり靴にこだわったことはない。とりあえずサイズが合って履ければいいや、と思うのがせいぜいで、時たま革靴を買ったときに豆ができて痛いとか、あるいは穴が空いたとか、そういうことでも起きないと靴を意識したことはないし、できる限り安いものを買えばいいと思っている。

 妙に靴にこだわりを持つ人と話していると、奇妙な気分になってくるものだ、と私は思うのだが、同時に有名な話として靴と足の心理学的な象徴を考えると、なるほどなあと思うときもある。

 冒頭の須賀敦子の言葉については、私は読んだときに少し飛躍して物事を考えていたように思うが、それは例えば「足下を見直す」と言ったときに、人は本当に自分の足下――例えば靴の脱ぎ方や自分の履いている靴が汚れているか否か――を見直すわけではない、ということと同義だろうと思う。

「きっちり合った靴」というものは、まさしく自分の肉体にフィットする代物であろうと思うのと同時に、おそらく人はこの部分を何か象徴的な「靴」として判じているはずで、私はこれを読んだときにその二重性について少し思いを巡らしていた、のかもしれない。

 いや、実際のところ、この文章を読んだ次に考えることと言えば、「じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。」ということの物理性とその虚構であるはずで、「きっちり合った靴」と「歩いていける」ということの連関は、「歩く」ことの抽象性――それは一体何の上(どこ)を?――に繋がっていく、のかもしれない。

 私は今、GUにいて、先日というよりは何年か前に買ったスリッポンの履き心地がよかったものだから、その替えを今こそ買うべきときなのかもしれない、と須賀敦子の文章を思い出して買おうとしているのだが、この即物性というか物理性のようなものが、果たして本当に須賀敦子の射程にあったのかどうかについては実際のところ、さほど興味はなくて、文章というものはそういうものなのだ、というテクスチャーというか、そういう引っかかりというか、そういうものにこそ本当に興味がある、のかもしれない。

 本腰を入れて考えてみようと思った須賀敦子の「靴」にまつわるこの一連のうだうだした文章は、けれども実際のところ私の物質的な側面と、精神的な側面の二面を表すと同時に、これを読むあなたの二面も表している。

(当たり前の話だが)一つは、「きっちりと足に合った靴」の実在の有無と、その象徴的な「靴」の存在の有無である。もう一つは、「どこまでも歩いていけるはず」という思いの、歩く物理的な場所と、精神的な目標(ゴール)である。

 結局、私はGUでスリッポンではなくスポーツ用のシューズ(990円!)を買った。実に履き心地の良い、「きっちりと足に合った靴」である。そして「どこまでも歩いていけるはず」という確信に沿い、私の正月はウォーキングに明け暮れることになった。トルコの交流館に行き、モスクの中を見学できたのでそこを見学していたのだが、あまりの美しさに正月早々に良いものを見せてもらったと感激したのだった。

 人によっては前者の方が難しいかもしれない。人それぞれに足のサイズは違うのだし、私がそうなのだが、右足は中学生のときの部活で捻挫した所為で足の甲が少し盛り上がっていて疲れると痛くなってしまうのだが、そういった個々の肉体的な事情のために。けれども、私にとっては後者の方がより難しい。そして、この「靴」がないばかりに、私はどこにも行けた気がしないままでいる、のかもしれない。

 

『ザ・サークル』(2017年)

ザ・サークル(字幕版)

ザ・サークル(字幕版)

  • 発売日: 2018/01/10
  • メディア: Prime Video
 

 ジェームズ・ポンソルトの『ザ・サークル』を観る。

 エマ・ワトソン演じるメイ・ホランドは、カレン・ギラン演じるアニー・アラートンの仲介で巨大IT企業サークルに就職することができた。彼女には難病の父親がおり、その治療法をカバーする健康保険が必要でもあった。初めは異質な文化に戸惑う彼女だったが、トム・ハンクス演じるCEOイーモン・ベイリーが開発したSeeChangeという、どこにでも設置することができる小型カメラデバイスをきっかけとして、少しずつ状況が変わり始める。あらゆるプライバシーを透明化しようとする彼女の行動に、ジョン・ボイエガ演じるタイ・ラフィートはかつてTrueYou(YouTube)を開発したものの、サークルが意図しないものに変えてしまい、SeeChangeもまた同様の危険性があると指摘するも、メイはまだその危険性の本質を理解できなかった。やがて、彼女は透明化の一環としてSeeChangeをほぼすべての瞬間において着用することとなり、そのことがきっかけで幼なじみのエラー・コルトレーン演じるマーサーの作った鹿のシャンデリアが動物愛護的な嫌悪感を呼び起こしバッシングされてしまうといった事態が生じる。また、両親に治療を提供することができたものの、四六時中を彼女と共に公開することとなった両親も、彼らの最もプライベートな部分についても(故意ではないもののタイミングが悪く)公開されてしまったことから、関係が悪化していく。また、アニーとの関係も、メイのポジションが向上していくとともに悪化していく。そして、ある日彼女はサークルの新コンセプトの発表会の社内プレゼンターとして抜擢され、プレゼンを行うのだが、その中で失った関係性や社会から隔絶していた人々を繋ぎ直すSoulSearchというサービスを発表するが、そこで彼女と疎遠になっていたマーサーが選ばれ、サポーターたちの暴走もあり、彼は撮影から逃れるため車を走らせていたが、誤って橋から墜落し、死亡してしまう。落ち込む彼女と、アニーとの関係修復とタイのアドバイスもあり、ふたたび社内プレゼンテーションの壇上に立つ彼女は、CEOに透明化を突きつけるのだった。

 悪夢的で、『ソーシャル・ネットワーク』という悪趣味な傑作とは対照的に、この映画はただそこから傑作を抜いただけの映画となっているのだが、それは何故だろうと考えたときに、果たして私の感じたものが生理的なものだけだったのか、ということを考える。

 私はこの映画を否定するのだが、その否定の根拠はと言えば、ほとんどが生理的なものなのかもしれない。若い人を、道徳的に振る舞いつつもその実は破滅の道に陥れようとしており、その様を作り手はしてやったりといった表情をしながら撮影している、といった。

 俳優たちに非はないと思うのだが、これはエマ・ワトソンがこのトラブルの当事者だからなのだろうか。妙に観ていてむかむかとしてきて、それは消えることなく、ひとまずの最後の段に到った後もつっかえが残るものだった。

 おおむねディストピア的なものを描きたいような欲望があったのかもしれないのだが、タイトル通り、サークルの内側に閉じており、彼女たちの途中で話し始める政治的な状況との接続はあまりに説得力がなくて、観ていて辛くなった。

 趣味が悪いと言えば、どう考えても作中の両親のシーンであろうとは思うのだが、SeeChangeというガジェットのもたらすプライバシーとの激突は、年老いた彼らだけの問題ではなく、もっと基本的に想定しうるものであるはずなのに、その部分がすっぽり抜け落ちているのが、余計にたちが悪い。

『アイリッシュマン』(2019年)

 マーティン・スコセッシの『アイリッシュマン』を観る。Netflix映画。

 ロバート・デ・ニーロ演じるフランク・シーランは、第二次大戦後のアメリカでトラックの運転手として働いていたのだが、牛肉運搬の最中にジョー・ペシ演じるラッセル・ブファリーノというマフィアのボスに出会ったことで運命が変わり、トラックの組合の弁護士に不正を助けてもらったことで組合に入り込むようになり、アル・パチーノ演じる全米トラック運転手組合委員長のジミー・ホッファの用心棒となる。ジョン・F・ケネディ大統領時代に、ホッファはロバート・ケネディによってその不正を追及され、結果的には刑務所に入ることになるのだが、マフィアとの関係はどんどん悪化していき、出所後、シーランの記念式典の際に、その差異は決定的なものとして現れてしまう。シーランはラッセルの側につくことになったため、ホッファを殺害し、そのことがきっかけで家族ぐるみで付き合っていた娘とも絶縁状態になってしまう。関係者が全員、別の罪で収監されるも病死し、ひとり残ったシーランは神父に告解するのだった。

 フランク・シーランという人物の一生を描いた作品である。スコセッシ特有の、なぜか途中から物語が始まり、途中で語りの現在に追いついたかと思いきや、一緒になって語っていく、という『カジノ』や『グッド・フェローズ』でお馴染みのものであるのだが、やはりこの時間軸を描くにあたって、このスコセッシの技法は十分すぎるくらいに有効である、というのを痛感した。

 かなり雑駁にまとめてしまうと、このシーランという人の孤独はどこにあるのかと言うと、ほとんど生涯を他人のパシリみたいなものに費やしてきた、という点に尽きるのではないか。途中、彼は妻と別れて再婚するのだが、そのときの別れ方もいかにも愛着がない。車を乗り替えるように別れる。彼の中に「家庭」のようなものは見えないように映る。例えば老年の家族愛とその空白については、『運び屋』の中でイーストウッドが不在の時間を見事に描き出したのだが、他方でこのシーランは出来事の多寡だけで判ずるならば、かなり濃密なものを過ごしているように思うが、そこにシーラン自身がいないようにも思える。そして、娘のペギーが懐いていたホッファとの最期にしても、やはり他人の思惑に乗っかっているだけのように思うし、その結果としての娘との疎遠も本質的には自分の意志の外で起こったものだ。よく考えれば、ラッセルと車を運転している道中の描かれ方も、タバコを吸い続ける女たちと、常にラッセルを気にかけるシーラン、という描き方だった。

 アメリカの近代史と、その裏側にいた暴力を描きつつ、そこには当然にして死の気配が濃厚につきまとっている。血腥さというものについて、なんて言えばいいのだろうか、一つには嫌悪感があるのと同時に、一つにはおそらく居心地の悪さのようなものというのか、それは本来的には自分たちの身につけるもの、手にするもの、得ているものの背後にあるものなのかもしれない。

 私はこの映画を肯定するが、この肯定は苦虫を噛みつぶしたような、そんな類の肯定なのかもしれない。