Outside

Something is better than nothing.

なおのこといくつか

  小説を書き始めたときに、多少なりとも羞恥心があるのであれば――しかし小説を書き、なおかつ発表することそのものに羞恥心の欠如がなければ成立しないような何かがあるのかもしれないという大前提は置くとして――アマチュアの小説書きにとって後書きや自作解説のような痛々しいことは避けるべきだという言が盛んに言われ、例によって痛々しい物書きの一人であった私はそれを肝に銘じてきたのだけれども、それでもなおのこといくつかの作品については書き記したいような、そんな思いに駆られる瞬間がある。

 それは自分の作品に絶対の自信があるというわけではないのだけれども、十数年という期間、小説を書き続けてきたことになる以上、十年近く前の作品について、何かを感じないはずがなかろうというものであり、それはむしろ解説というよりは思い出といった趣の方が強い――つまりこれは回想なのである。

 だから2008年、大学入学前後に書いた2つの作品集――『決壊と文学』と『Slipstream』――について、以下に書き記すことはあくまで思い出の範疇に過ぎず、自作に対して作品を超えて作品を補助する目的にあるわけではない、あくまで2008年における私の状況についての回想を以下に記したいと思う次第である。

 以下に書き記すことは、先だって電子書籍化を果たした二つの作品集――『決壊と文学』および『Slipstream』――についての述懐ということになる。

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決壊と文学

決壊と文学

 
Slipstream

Slipstream

 

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 記憶を遡ると、2008年という年については私の転機となる年だった。個人史としてはこの年に大学に入学することになったし、もちろん一人暮らしを始めた年にもなるのだし、非常に漠とした言い方にはなるのだが小説の書き方が変わったときでもあった。

 2007年に浪人が決まったとき、私は小説を書いていた。それは『岸間戦争』という100枚くらいの中編小説で、岸間市を巡って何者かが暗躍し、それに翻弄される人々を描いたというものだったのだが、それを大学受験のときに、受験のために宿泊したホテルの中でも勉強そっちのけで執筆を続けて見事に大学は全部落ちた。今思うと、逃避行動でしかないのだが、当時の私は妙に真剣で、ゆえに書き切らないと、という思いが強く厄介な代物であった。出来上がった代物については、ゆえあって今は作品集等には入れていない。

 そして私は河合塾にいた。あらゆる試験に蹴落とされてしまって蹂躙された私は、ゼロからのスタートということになった。今までそれなりに苦労せずに友人を作ることをできていたし、生来、喋るのが好きだった私は、一つの制約を自分にかけた。

 それは友人を作らない、というものだった。

 どうしたって友人を作ると、そこに流されてしまう自分の意志の弱さを克服するために、私はそうすることにしたのだけれども、同時に高校までの友人がときおり帰省時に私を励ましてくれたので、不思議と寂しくはなかった。

 けれども教室での居場所がないことは辛かった。ひとりで黙々と勉強ばかりしていると、叫びたいくらいに寂しさが募ることもあった。福山市スターバックスで、ダサい格好をしたむさ苦しい男が、本日のコーヒーとサンドイッチだけで8時間ぶっ続けで勉強していたこともあった。いかにも邪魔くさい存在だっただろう。

 そのときに書いていたのが、『決壊と文学』に後にまとめられることになる小説の数々だった。

 尾道市という場所に本屋は数軒しかない――というのは地方に住む人間ならば当然のこととして、つまり田舎には本屋がない。尾道市はその点、まだ恵まれている方であろう。文化不毛の地というわけではなく、現在では自転車などのサイクリングを初めとした新たな観光資源を掘り起こすことのできた体力のある自治体にとり、まだ最低限であり同時に基礎的な書店という文化は残存していた。

 私は駅前の本屋によく通った。決して品揃えのいいわけではないその書店には、けれども当時の私を満足させるに充分な品揃えがあった。マルケスの『百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)』をそこで買ったし、ちびちびと太宰治作品(新潮文庫)を買っていたのもここだし、当時大好きだった西尾維新の作品を買っていたのもここだった。わざわざ福山市で買わなかったのは、どことなく地元で買った方が気が楽だったからだろう。

 私は同人活動を行っていた。ネット上で小説仲間を集って小説を書いては投稿していたのだが、ある程度まとまった形のある仕事をしたいということで、同人活動が開始された。そこで私は何人かに声をかけた。その中で知ったのがボルヘスだった。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

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 現在の視点で見たまんまを言えば、当時の私は相当にアホだったと思う。今でも相当にアホだと思うのだが、そのベクトルは当時とは異なってしまっていて、ゆえに当時の私を容赦なく表現することができるのだが、それはともかくとして、ボルヘスの『伝奇集』を読んだときの私は、まったく書いていることの意味が分からず、しかし不思議とその賢そうな雰囲気に惹かれた。

 今思うと――そして現在のアホな観点から言えば――それは文章のリズムに惹かれていたに違いないと思うのだが、それはそれとして私はボルヘスにどっぷりと浸かった。同時期に金原ひとみ川上未映子東浩紀にもどっぷり浸かった。よく分からない選択なのだが、時代のトレンドだろう。

 私はいくつかの『決壊と文学』に収められる作品を書いていった。「アイスクリーム」という作品は明確に金原ひとみ川上未映子の影響下にあると思うし、「Faces」や「イビル」もまたその亜種だろう。表題作の「決壊と文学」はボルヘスの影響が濃い。

 全体を通して奇想と驚きに満ちた小説集を作りたいという思いが強かった。それは浪人生だった私の、プライドの歪な変形だったのかもしれないと今は思う。人に認められたい気持ちが歪にねじ曲がった末に、正道的なものではない形で創作意欲が湧き上がったのが、この小説集だったと。

 しかし、上記のように書くと、まるで私がこの小説集を貶めているように見えてしまうのだが、違う。私は、この時点で全力を出し切ってこの小説を書いたのだ。たとえ動機が、出発点が今の視点から考えると、ちょっとどうかと思うようなところだったとしても、その推進した先にあるものは……。

 高校三年間の私は暗黒時代と思えるほど酷かった。病気もしたし、いろいろと複雑な経緯もあったし、過ちも犯した。私は河合塾でめきめきと実力を伸ばしていき、また同時にたくさんの本を読んでいった。現役だったときにやったように、受験前日に小説を書くような愚かな真似はしまいと決意した。

先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ

 

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 私は成城学園前三省堂書店にいた。私の祖母の姉がそこに住んでいて、私は大学受験のために一時的に下宿させてもらっていた。彼女との共同生活は実に心地よく、人生の中でもっとも楽しい時間の一つだった。

 私は大学受験のために東京に来ていたのだ。舞城王太郎の「舞城小説粉吹雪」展を見に恵比寿に行ったり、川上未映子の『先端で、さすわさされるわそらええわ』を読みながら、小説を書いていた。受験が、一週間後に迫っていた。

 人間とは学習しないものだ――とその後、私はとある大学教授の講義の中で知ることになる。三つ子の魂百までとまではいかないにしても、人格形成期に培った人格を、人間はおいそれと変えることはできないと教授は言った。何ら学的な根拠のない放言ではあるものの、その言葉は妙に私を納得させるのだった。確かに私は高校くらいの性格から何一つ変わっていないのではないか。変わったとしたらそれは、性格というよりも、他人に見せるペルソナの、微細な変化なのではなかろうか。つまりこれは、人格的な問題というよりも、純技術的な問題である、といった――。

 後に『Slipstream』としてまとめられる小説のいくつかは、このときを皮切りに書き進められていた(「Catch Me If You Can」「I Can Fly」「地下」等)。けれども、完成は大学入学を待たなければならない。

 大学受験のために東京に上京したものの、上京後の受験の結果は散々であった。それは当然であろう。私はセンター試験で高得点をたたき出したのをいいことに、センター試験の結果で入学していたのだから。もう二次試験などどうだっていいと思っていた。だから小説を書いていたわけだ。祖母の姉は韓流にハマっていた。韓流スターのうんちくを聞きながら、私は広島から持ってきた自分のパソコンで小説を書き続けていた。駅前のスターバックスで彼女はコーヒー豆を買ってきてくれて、私は彼女のいれたコーヒーを飲んでいた。ブラックコーヒー。苦くて、青春の味がする……。

 その後、私は大学に入学し、吉祥寺に住むことになった。

 花の吉祥寺!

 若者の街吉祥寺!

 けれども私は出不精で、夜な夜な井の頭公園を徘徊しながら、世のカップルどもが全員いなくならないかなあと凶悪なことを考えながらランニングに勤しんでいた。つまり性欲を発散させていたことになるのだが、けれどもそれでも収まりきらない謎めいたエネルギーは、執筆に充てられることになった。

 小説集の後半に収められた作品「Chaos」「帝国」「Slipsteam」は、大学入学後に書かれた作品になる。私は特に表題作が好きだ。反復を用いて作品を作った私にとって初めての実作になるのだが、文章のリズムができていて非常に楽しい作品となっている。

 例によって鬱屈したエネルギーに基づいてはいるものの、私の中では短めの小説集ともなっていて、気楽に読めるものを志した。前作が奇想と驚きに満ちた小説集だとすれば、今作は奇想に満ちた作品だということができるかもしれない。

 その後、私は『機械』にまとめられることになる小説を書き始めることになる。また、その間に『手指綺譚』という短めの作品集も作った。

 書き続けているそのものについて、それ自体にはまったく何の意味もないと私は思うのだが、書き続けた後に残っているさまざまな作品を見るにつけ、なおのこといくつかまだ書きたいことがあると思う。ここ最近、『過去改変』という初めての長編を書いた。自分なりに全力を出し切った後に、それでも恐ろしいことに残っているのは、なおのこといくつか残った、「まだ書き切れなかったこと」や「まだ書きたいこと」である。結局のところ、前に進むしかないのだ。

 ……ただ、ここで紹介した二つの小説集については、私の思い出と密接に関わっていることもあって、多少の回り道を披露した。

7月の振り返り(Stairway 7)

Sun

 7月の振り返りということで、とりもなおさず言うべきことは連日の酷暑だろう。7月の平均気温は28.3℃ということで、高温が続いた。さらに言えば、西日本を襲った連日の雨による災害が月の前半にあり、後半は高温による熱中症が取り沙汰された。

www.nikkei.com

 この暑さによる死傷者については、謎めいた見解が示される場合が少なくない。というのも、一部スポーツにおいてはいわゆる根性論めいた克服法がよしとされる傾向にあり、精神性と気候というのはいささかも関係ないにもかかわらず非科学的な思考法によって前近代的な価値観の押しつけが常態化しているように思われる。

 一方で、個人的な観測範囲の中において、会社組織内にて、営業系の仕事をする人間に対する配慮が組織として示されるということを目撃したこともあり、つまるところ大人以前の子供たちにおいては人間未満ということで人権は保障されていないのが実情なのかもしれない。

 政治状況については相変わらず絶望的な状況というより他はなく、人権に対する意識の低さ――前述の通り前近代的な価値観に基づく――によるいわゆるLGBTQ等に対する配慮の欠如があった。これはまた別の形で現れてしまったのだが、女性医師への差別ということもまた、翌月の話にはなるものの発生している。

 その中でもトピックス的に触れておきたいのが、枝野幸男立憲民主党党首による演説であり、その真っ当さについてはこの絶望的な状況における一筋の光明のように思える。

note.mu

 また「貯蓄から投資へ」のスローガンで、政府や日銀が貯蓄商品から資産運用商品への誘導をしていた状態だが、統計作成時に「30兆円以上」もの過大計上をしたとの記事が報じられている。

 記事中にもあるように、このレベルの統計上の誤りというのは前代未聞というより他はなく、端的に国力(という言葉は好きではないが)の低下を思わせた。このようなレベルの誤りが頻発するようであれば、少なくともある種の人々の持つ自負の正当性が問われる。

mainichi.jp

 世界的にはアメリカの中国との間の貿易戦争が過熱しており、また金利上昇についても注視する必要があるだろう。

 とにもかくにも暑いので、何もする意欲が湧かないのだった。

 

【関連記事】

joek.hateblo.jp

『ジュラシック・ワールド/炎の王国』(2018年)

ジュラシック・ワールド/炎の王国 (小学館文庫)

ジュラシック・ワールド/炎の王国 (小学館文庫)

 

 フアン・アントニオ・バヨナの『ジュラシック・ワールド/炎の王国』を観る。

 前作から3年後の2018年、パークが破綻した後も恐竜たちは住まい続けていたが、その島の火山が活性化し、恐竜の絶滅を巡って政治問題化していた。そこで、 ジェフ・ゴールドブラム演じるイアン・マルコムは発端となった「ジュラシック・パーク」事件の当事者であることからも、状況を自然に委ねるべきだと総括する。一方、ブライス・ダラス・ハワード演じるクレアは商業主義から脱し、恐竜の保護を訴える活動をしており、その中でロックウッド財団のレイフ・スポール演じるイーライ・ミルズから恐竜を保護するように依頼される。そこでラプトルの生育にも携わったクリス・プラット演じるオーウェンに(一度別れてしまったものの)依頼をし、 ダニエラ・ピネダ演じるジアやジャスティス・スミス演じるフランクリンらとともにイスラ・ヌブラル島に向かうのだった。活火山が噴火活動を繰り広げる中、保護対象の恐竜――そして自身が愛情を持って育てたラプトルのブルーに再会したオーウェンだったが、財団の派遣した傭兵テッド・レヴィン演じるケン・ウィートリーに邪魔されてしまう。そう、彼らは恐竜を保護したいのではなく、結局のところ商業的に利用したいだけだったのだ。噴火が活発になり、炎に包まれていくヌブラル島から命からがら逃げ出したオーウェン一行は、そのままロックウッド財団の屋敷に向かう。財団の設立者であるジェームズ・クロムウェル演じるベンジャミン・ロックウッドは高齢のため実務をミルズに任せていたが、実はこの動きはミルズの独断だった。イザベラ・サーモン演じるロックウッドの孫娘メイジーはミルズの策略をロックウッドに伝えるが、ミルズは逆にロックウッドを殺害してしまう。次々に恐竜に運びこまれていく屋敷に、怪しげな人々がオークションのためにやってくる。B・D・ウォン演じるヘンリー・ウー博士はインドミナス・レックスに代わる新たな「兵器」を作り出し、「インドラプトル」というラプトルをベースにした殺人兵器を作っていた。トビー・ジョーンズ演じるグンナー・エヴァーソルは屋敷の地下でオークションを開催する。オーウェンとクレアは彼らの動きを阻止するために動き出すが、その中でインドラプトルが檻から出てしまう。メイジーに状況を聞いた彼らは、ブルーの協力も得て、なんとかインドラプトルを撃退することができる。だが、火災が起きた屋敷の中で恐竜たちのその後を彼らは考えるが、実はロックウッドの娘のクローンであることが判明したメイジーが彼らを解き放ち、恐竜たちは町に逃げていく。イアン・マルコムは状況の変化に対し、皮肉めいた口調で答えるのだった。ジェラシック・ワールドへようこそ、と。

 かなりの内容が詰め込まれた映画ではあるのだが、観ると滞りなく観ることができるので、かなり脚本に力を入れているような気がする。前作が兄弟愛を一つの軸として活用していたが、今回はややその軸はばらけていた印象である。とはいうものの、この映画はかなり面白い。

 物語はイアン・マルコムによる最初と最後のパースペクティブを与えられることで、この一連の映画シリーズの総括としているのだろうと思われる。個人的には久々に観た彼の白髪に、驚いた。

 前半の島の描写と後半の屋敷の描写が対照をなしているが、前半部分の噴火活動中の島における迫力ある映像はなかなかお目にかかれないものである。と、同時にインドラプトルが狭い屋敷の廊下を走る様子は、恐竜映画というよりはもはやホラーである。

 ということで、この映画は(至って真っ当な)「ホラー映画」であるのだった。月に吠える恐竜なんかが出てくる時点で、恐竜ものとしては観られないような気がするのだった。

 全体としてテンションが高い映像が続き、インドラプトルの恐怖感はひとしおである。かなりの良作であると私は思う。