Outside

Something is better than nothing.

『バリー・シール』(2017年)

 ダグ・リーマンの『バリー・シール』を観る。副題は「アメリカをはめた男」。原題は『American Made』。

 1970年代にトム・クルーズ演じるバリー・シールは航空会社のパイロットとして働いており、その傍らに密輸に関わっていたのだが、それを ドーナル・グリーソン演じるCIAのシェイファーに注目され、極秘任務を請け負うようになる。それは秘密裏に中米などの軍事施設を盗撮するという役回りで、非常に鮮明な写真を撮ることができたシールは重宝されるようになる。やがてシールはマウリシオ・メヒア演じるパブロ・エスコバルなどと関わりを持つようになり、麻薬の密輸にいそしむようになる。CIAの依頼でニカラグアの親米反政府組織に武器の受け渡しを行うようになったが、彼らが政府を倒す気がないと分かった途端に武器を他の組織に横流しするようになり、またますます麻薬の密輸にいそしむようになった。そうこうしているうちに、サラ・ライト演じる妻ルーシーとともに扱いに困るほどの大金を持つようになったシールは、ルーシーの弟であるケイレブ・ランドリー・ジョーンズ演じるJBの扱いに苦慮しつつも、裕福な生活を送るようになっていった。ところが、状況の悪化に耐えかねてCIAはシールを切り離すこととし、DEAとFBI、ATF、さらには地元警察に捕まったシールは、なんとホワイトハウスの招聘により窮地を脱することになり、ニカラグアサンディニスタ民族解放戦線が麻薬の密売に関与している証拠写真を撮ることを条件に釈放される。撮影に成功したシールだったが、それまで関わっていたカルテルを裏切ることにもなった。表に出ないとされていた写真が呆気なくメディアの俎上に上ると、カルテルの復讐を恐れたシールは自分の痕跡をビデオテープに収め、彼の人生を総括するとともに、毎日のようにモーテルを変える日々を送った。だが、しかし死に神は彼の傍まで忍び寄っていたのだった。

 トム・クルーズの演技が絶好調になっている映画で、たしか同時期に公開されていたと思う『ザ・マミー』はとんでもない駄作だったのが嘘のようである。

 ダグ・リーマンは短いカットを積み重ねていくことで、この映画の圧倒的なテンポを作り出すことに成功し、その展開の面白さはスコセッシの『カジノ』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』に及ぶ。

 ただ、この辺りはうまく素材と役者の関連があると思うのだが、トム・クルーズロバート・デ・ニーロレオナルド・ディカプリオのようにただ転落することはない(ついでに言えば浮気もしない)。

 逃亡生活におけるモーテルの描写にそれは顕著に表れているのだが、彼は車のキーを入れるときに、かつて妻の弟JBがカルテルに暗殺されたときに起こした爆発を思い起こし、奇妙に思われることを承知で人払いしている。

 副題はミスリードで、彼はアメリカをはめたというよりは、ただ利用されただけで、その利用されている中で個人の利益を最大化したのである。この生真面目な人物は政治状況――こういう言い方は好きではないが――「歴史」に翻弄され、最終的には選択の余地なく暗殺される。

 個人的には文句なく面白い作品だった。

『イベント・ホライゾン』(1997年)

 ポール・W・S・アンダーソンの『イベント・ホライゾン』を観る。

 宇宙開発が進み、人類が当然のように宇宙に進出している西暦2047年において、7年前、消息を絶ったイベント・ホライゾン号を、ローレンス・フィッシュバーン演じるミラー船長を筆頭としたルイス&クラーク号が探索する。サム・ニール演じるウィリアム・ウェア博士は、妻を自殺で亡くしてから幻覚や幻聴を見るようになっており、それに惑わされつつも、政府の指令を遂げるためにイベント・ホライゾン号を探索する任を遂行しようとする。発見したイベント・ホライゾン号の内部には生命反応が船内のあちこちにあった。クルーの生き残りは発見できないまま、不可解な状況が続き、クルーのひとりが精神をやられてしまう。どうやらイベント・ホライゾン号のコアが、空間移動の結果として意志を持つようになり、彼らを異次元世界へと招こうとしていることが分かってくる。ウェア博士はコアの意思に従うようになったが、残った面々は彼に抵抗する。必死に脱出を試みるのだった。

 クレジットに「Paul Anderson」と記載されていたこの時代が、ある意味での絶頂期なのかもしれないのだが、いや、それはそれとして非常に楽しめる作品だった。スペース・ホラーということで、途中から宇宙でやる必然性はなくなってね?と思う展開になってくるのだが、『2001年宇宙の旅』と『エイリアン』辺りをうまく融合させたような楽しみがあった。

 とはいえ、単純にそれらの類似品としてのみの楽しみがあるかと言えば、そうではなくて、美術がかなり凝っているのである。序盤の方からこの辺りのこだわりが垣間見ることができて、上述の通り話の展開は必ずしも宇宙空間である必要はないとは思ったのだが、今で言えばタブレットのようなものも出てくるし、発見したばかりのイベント・ホライゾン号の無重力空間に漂う散乱物の描写等も興味深い。

 そうしてみると、登場人物たちも合理的に動いているように見えてくるので、だんだんと目が離せなくなってくる。かくしてこの映画は、佳作に仕上がっているのだった。

6月の振り返り(Stairway 6)

sunrise

 ほとんど非活動的かつ非生産的な日々を送るような気がしてならない。それはうだるような暑さの訪れを前にして、もう何もやりたいことなどないし、そもそもやりたいようなことなど人間の本質としてないのではないか、ということを思ったり思わなかったりするのだが、そんな短絡に陥るのは知力の不調というより他はない。

 サッカーのワールドカップが開催され、西野監督の下で日本代表は当初の予想よりも遙かに善戦することとなったのだが、その中で我々はほとんど無意識的に自分たちを日本代表を応援する者として捉えており、それを疑うことはなかったように思われる。別段それは不思議なことではなく、サッカーという競技とワールドカップの持つ特性なのだと言えばそれまでなのだが、けれども私たちはその少し前にあるアーティストがシングル曲のカップリングに収録した楽曲を巡って、いわゆる愛国心とその発露について、議論が沸き起こったはずだった。

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 RADWIMPSの楽曲「HINOMARU」における、戦前風の表現について賛否両論となったはずで、私は彼らの楽曲のうち、とりわけ「DADA」が好きだったのだが、それなりにげんなりした。

 エモーショナルに訴えかける何かを、多くの人々の前でパフォーマンスするとき、恐るべき感性に至りかねない。おそらく個々の人々には大した(こう言ってよければ)悪はないのだろうが、その集積が最終的には悪へと変貌することはよくあることだろう。全体主義といったとき、この全体という言葉の包括する意味に引っ張られているような気もするのだが、サッカーだろうが音楽だろうが、個々の人々の反応それ自体に害はなくとも、それがある指向性を持ったときに、悪となりかねないと私は思う。そしてそれらはエモーショナルなものであるがゆえに、委ねているその瞬間における快楽は鋭く心地よい。この騒動の後に、彼らはライブ会場でそれまでの謝罪とはまったく異なる主張を発したらしいのだが、その瞬間における快楽の絶頂は凄まじいものであっただろう。私はそれを否定するつもりはないが、かといって肯定するわけでもないのだった。

www.asahi.com

 

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 新幹線での殺傷事件やブロガーの殺人事件など、物騒な事件が続く中、運用について考えるべきものとしては上述のマイニング技術に係る警察の対応についてだった。高木浩光の記事「高木浩光@自宅の日記 - 懸念されていた濫用がついに始まった刑法19章の2「不正指令電磁的記録に関する罪」」に詳しいが、読めば読むほど疑問が湧く運用を警察はしているように見受けられる。

www.yomiuri.co.jp

 何はともあれ、いわゆる働き方改革関連の法案成立も行われてしまったことであるし、米中の貿易戦争は過熱しそうであるし、私も私で環境が変わりまた忙しくなってしまうしで、何もいいことはないのだった。

 

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