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Something is better than nothing.

『名探偵コナン ゼロの執行人』(2018年)

 立川譲の『名探偵コナン ゼロの執行人』を観る。

 東京湾に「エッジ・オブ・オーシャン」という大型の施設ができ、そこでサミットが開かれる予定だったのだが、公安による調査を実施している最中にガスによる事故が発生し、公安警察が被害に遭い、その中に安室透の姿があった。その捜査の最中に毛利小五郎の指紋が見つかり、否応なく江戸川コナンは事件へ関与せざるを得なくなってくる。これはIoTを利用したテロということが分かり、遠隔操作による犯罪だということが判明し、毛利小五郎の証拠物としてあげられていたパソコンは遠隔利用されていたことが判明するものの、人工衛星が日本へ帰還してくる。そしてその人工衛星は例によって不正に操作されて、警視庁に衝突することとなってしまい、コナンと安室は必死にそれを避けるための行動を取る。結果として、阿笠博士の開発したドローンによる爆破で軌道修正に成功したものの、小五郎や蘭たちが避難した先に軌道修正されてしまうので、コナンによるキック力増強シューズによる一撃でなんとか軌道修正することができたのだった。

 主に公安警察における協力者について焦点が当てられ、「事件」とされるものについてはそこを起点にして事件が構築されており、途中までは結構楽しめた。後半に至っては明確なヒーローとして描かれるようになった江戸川コナンの活躍が描かれるのだが、とうとう墜落する人工衛星の軌道すら変えることができるようになり、ますます現実離れしていく。

 この映画はおそらく『君の名は。』に対するアンサーなのではないか、というのが一見してほとんどの人が思う感想なのではないかと私は勝手に思っているのだが、そこで明確に『君の名は。』にあって、「名探偵コナン」にあるもの、と言えば、当然「ヒーロー」の存在だろうと思うのだった。

 ゆえに、いかに現実離れしていようが、コナンは衛星墜落軌道を変更することができ、ヒーローが不在の『君の名は。』においてはそのすでにある世界に対して変革する存在を欠くため、「移動」する必要があった。どちらが現実的か、という話ではなく、これはおそらく話の作りとその要請されるキャラクター像に基づくストーリー上の必然かと思われる。

 ところで公安警察の安室は公然と違法捜査について、正義の名の下で、本法への愛国的な感性を持ち、責任を取ることができるならば可能だと述べているのだが、その感性というのは非常に危険な思想なのではないか、と個人的には思っている。

 むしろコナンが犯人に対して怒鳴った発言の真っ当さの方を、私は支持したい。

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 前作「から紅の恋歌」の感想。 

joek.hateblo.jp

『マネーモンスター』(2016年)

 ジョディ・フォスターの『マネーモンスター』を観る。

 ジョージ・クルーニー演じるリー・ゲイツは「マネーモンスター」という投資番組の司会者で、軽快なトークを武器に人気を博している。その番組のプロデューサーはジュリア・ロバーツ演じるパティ・フェンで、彼のアドリブ癖に辟易しつつも、番組の人気を不動のものにしていた。しかし、ある日、番組放送中にジャック・オコンネル演じるカイル・バドウェルが乱入する。彼はリーがおすすめした「アイビス」という新興企業の株が暴落したのを受け、逆上して番組をジャックしたのだ。銃を持ち、爆弾をリーの体に巻きつけ、ボタンを離すと爆発すると脅し、放送の継続を求めるカイルに、パティらはそのまま番組を持続させることにする。ドミニク・ウェスト演じるアイビスのCEOウォルト・キャンビーは出張で不在の中、アイビスにまつわるプレスリリースを託されたのはカトリーナ・バルフ演じる広報担当ダイアン・レスターで、彼女は自社を守ろうとはするのだが、キャンビーの不可解な行動によって疑問を抱くようになる。ジャンカルロ・エスポジート演じるマーカス・パウエル警部は状況に介入を試みるものの、犯人との思惑の違いからなかなか上手くいかない。リーは始め命乞いを行うような形だったが、だんだんとカイルの言い分を聞き入れ始め、パティもまたアイビスの株価暴落は何か裏があったのではないかと、独自にダイアンらと協力し、情報を探る。カイルとリーは人質という状況を利用し、キャンビーが出張から戻り、報道陣に対して説明を求める場を利用することにして移動する。そして、アイビス南アフリカでの鉱山にまつわるストライキに際して、過剰な投資等を行ったことがきっかけで暴落したことが暴かれるのだった。

 状況は適切に配置され、登場人物のどうしようもなさっぷりを見事にジョージ・クルーニーが演じている。かなり見応えがある映画であることは確かで、最終的にキャンビーの思惑というものは古典的ではあるのだが、それなりに納得できる。個人的にはキャンビーとダイアンが不倫関係にあった、というところはやや余計なのではないか、という気もしたのだが、それはまあいいだろう。ジュリア・ロバーツのやり手のプロデューサー感が格好良い。そうした意味で、この映画はとてもよくできた映画である。

『軽い男じゃないのよ』(2017年)

 エレオノール・プリアの『軽い男じゃないのよ』を観る。Netflixオリジナル。

 ダミアンは女たらしで独身を貫いていたのだが、ある日友人と一緒に道を歩いているときにポールにぶつかり意識を失うと、男女のジェンダーが逆転した世界に迷い込んでしまう。そこで、元の世界でくどこうと思っていた女性と出会い、しかし女性側は元の世界で言うところのプレイボーイで、本気になってくれない。小説家として女性はダミアンの存在を面白おかしく描こうと思っていたのだが、恋の駆け引きの中でだんだんと本気になる。ダミアンは結婚を彼女に申し込み、彼女はプロポーズを受け入れるのだが、彼女はすでに結婚しており、その行き違いからダミアンと彼女は喧嘩し、頭突きを食らわすに至り、ふたたび世界は元通りになる……かと思いきや、彼女の方もまた男女逆転世界に行ってしまうのだった。

 平たく言えば、ジェンダーであったり性差別であったりという、この生まれ持っての性別(ついでに言えば、逆転後の世界にもきちんとLGBTQの存在に触れられているところは感心した)にまつわる厄介ごとが、そっくりそのまま逆転してしまったという世界になるのだが、これほど奇妙で歪なものだとは思いもよらなかった。

 ある程度の想像はついていたのだが、映像として見せられたときのグロテスクさというものはあって、つまるところ日常的に男性が女性に対して意識的にせよ無意識的にせよ行っているさまざまな(欲望に基づく)行動が、いかにおぞましいものなのか、ということを見事に描き出している。

 例えばちょっとしたからかいだったり、視線だったり、あるいはセクハラだったりするものが、権力や暴力を潜在的に持つことを許された一方から、被支配側にいることを暗黙に求められる他方へ、さも当然という顔をして展開される。これは本邦で言えば痴漢の問題にも繋がるだろう。

 その上で、逆転した世界において、元の世界の男性的なジェンダーをそのまま恋愛に適用しようとしたときに、その世界における「男性っぽさ」からは逸脱し、最初ダミアンはLGBTQのコミュニティに連れて来られるわけになる。これはなかなかに興味深い現象だった。

 もちろんこの「男性っぽさ」というものは、例えば無駄毛の処理や服装に当然求められるわけで、我々の世界における恣意性の蓄積が、逆転後の世界においてはグロテスクなものとして表出することは上手いと思った。

 その上で、結末は女性側がダミアンの世界に突入するところで終わるのだが、なんとなく悲劇的なものを予感せざるを得ない。