Outside

Something is better than nothing.

『メッセージ』(2016年)

 ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』を観る。

 エイミー・アダムス演じる言語学者のルイーズ・バンクスは大学で授業を開始しようとしたところ、学生たちがまったく集中していないことから何事かと思っていると、生徒がテレビをつけてくれとの依頼するので、テレビをつける。すると、全世界同時12箇所に謎めいたオブジェが浮いていることが分かり、自宅や大学で延々とテレビの情報を眺めていると、フォレスト・ウィテカー演じるアメリカ軍大佐のウェバーがやってきて、これは何かと異星人の音声を聞かせる。それだけでは分からないため実物に会う必要があると彼女は言うが、いったん大佐はその場を去ることになる。夜に軍用ヘリがやってきて、ルイーズを一員に加えることになる。そこにはジェレミー・レナー演じる物理学者のイアン・ドネリーがいる。ルイーズは見たことのない映像と感覚を何度もフラッシュバックし、持ったことのない娘の喪失と喪失に至る思い出を反復することになる。彼女たちは基地に到着し、一通りの説明を受けた後にその謎めいた物体に向かう。その最下部から侵入し、すると重力場が変わって歩けるようになるので最奥部に向かったところ、後にヘプタポッドと呼ばれることになる地球外生命体に対面する。ルイーズは彼らの発する言葉を解読するミッションを担うことになる。途中で、ボードに書いた文字に反応したことから、彼女らは言語を通じたコミュニケーションを図ることになるが、12地域に降り立ったため世界中で同時並行的に研究が進められることになる。いったい、何の目的があってやってきたのか分からないまま、彼女らは言語でのコミュニケーションを進めていくと、彼らの使う言語は非線形表意文字であることが分かる。メッセージを解読していくと、武器を与えるという言葉に行き着き、それがきっかけで世界中の協力関係が途絶えてしまう。中国は正式に彼らに宣戦布告を検討し、アメリカ側もテレビなどで攻撃を煽るメッセージを真に受けた兵士たちがヘプタポッドに対しC4での爆破を目論む。その場に居合わせたルイーズとイアンは彼らのお陰もあって無傷で済むが、今度は物体が上空に飛ぶことになる。簡単な接近が難しくなり、中国は正式に宣戦布告し、世界中での攻撃が開始されようとする中、ルイーズは奇妙な感覚に囚われたまま、物体に近づくと小さなポッドのようなものが射出され、それに乗り込む。乗り込んだ先で、ルイーズはヘプタポッドと対話することになる。彼らは3000年後に人類から助けられたため、贈り物をするためにやってきた。それは武器ではなく、言語であり、これを使うことで時間を超越した彼らの時間感覚を身につけることができるようになる、といったものだった。戻ったルイーズに、イアンは撤退が始まっていることを告げる。未来の出来事を予知し、未来そのものをあらかじめ体験できるようになったルイーズは、中国のシャン上将と未来において邂逅し、現在の彼を説得するためのキーワードを手に入れる。無事に攻撃が中止され、再び世界中での協力関係が構築されることになる。帰りの途上で、ルイーズとイアンは結ばれる。しかし、ルイーズには分かっている。やがてハンナという娘が生まれること、イアンと別れること、そしてハンナは若くして亡くなってしまうことを。

 ナボコフの未来回想のような感覚についての話なのかもしれないのだが、本邦の菓子であるところの「ばかうけ」のフォルムに似た宇宙船のデザインが独特で、その独特さにまず惹きつけられることになる。

 ヴィルヌーヴの演出は巧みであり、ストーリーに淀みはない。エイミー・アダムズはこの奇妙な感覚を備えた人物を好演し、ジェレミー・レナーはほとんどいつもそうしているように普通に物理学者を演じていることになる。

 へプラポッドの使う文字は、円形のものを基調としたもので、もちろん地球に住む人間の限界からすると書くのも読むのも難しそうではあるのだが、その名の通り七つの足を持つタコっぽくもイカっぽくもある彼らにとって、墨を吐けばいいのだから問題ないのだろう。あの独特な空間において、どのように文字が描かれるのかはあまり想像しづらいが、そういった点も含めて興味深さを感じる。

 非常に言いづらいところではあるのだが、面白いことは面白かったのだが、特段言うべき言葉がないのも事実である。それは例えば次作の『ブレードランナー2049』(2017年)のときにも感じられたものなのかもしれないのだが、これってそもそも面白いものなのか、という気がする。趣味の範疇が異なっているのかもしれない。

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『カンバセーション…盗聴…』(1974年)

 フランシス・フォード・コッポラの『カンバセーション…盗聴…』を観る。

 冒頭サンフランシスコのユニオンスクエアで、シンディ・ウィリアムズ演じるアンとフレデリック・フォレスト演じるマークがぐるぐると一ヶ所に立ち止まらずに歩き続けている。怪しげな男たちが二人の行動を見張るようにしているが、それはジーン・ハックマン演じるハリー・コールの差し金だった。彼は盗聴と録音を生業にしており、誰かから依頼を受けては決定的な会話を録音して売っていた。何気ないカップルの会話のように思えたそれも、実は女性の方が会社専務の妻で、男性の方がその会社の社員であることが分かる。不審なものを感じたハリーは、ハリソン・フォード演じるマーティン・ステットに対し、専務からの依頼物は本人にしか渡さないと伝える。孤独な生活を送るハリーは、プライバシーに厳重なあまり好意で贈られた誕生日プレゼントにも、その渡し方がきっかけで文句を言い、親しい間柄の女性についても彼の過去を尋ねるため別れてしまう。ジャズを聴きながらサクソフォンを吹くことが唯一の心の慰みであるようなハリーは、次第にアンとマークの会話にのめり込んでいく。彼らの会話には、どうやら殺されるかもしれないというワードもあった。ハリーは再度ステットと面会日時を調整し、専務へ直接テープを渡すことを検討するものの、その間に行われた盗聴器具の展覧会でテリー・ガー演じるエイミィ・フレデリックスを連れた仲間たちと職場で酒を酌み交わす間にテープを盗み出されてしまう。結局、写真のみを渡しにロバート・デュパル演じる専務の部屋に行き、彼らの行く末を訪ねるものの返事はない。会話の中でホテルの場所と部屋が伝えられるため、そこに行くとやはり部屋は埋まっている。その隣室を取ったハリーは、耳を澄ませたり盗聴器具を仕掛けたりして隣室の様子を知ろうとする。ベランダに出たところで、血だらけの手がガラス面に登場するため驚き、目を塞ぎ耳を塞ぐためにテレビをつけ、そのまま眠る。目覚めて隣室に行くものの、犯罪の痕跡は何もない。依頼主の元に行くが、追い返されてしまう。その後、新聞で専務が殺されたことが分かる。そう、アンとマークは殺されるのではなく、専務を殺そうとしていたのだった。部屋に戻り、サクソフォンを吹くハリーに電話がかかってくる。余計なことはするなという脅迫の電話とともに、彼の部屋の様子を盗聴した音声が流れる。彼は自室の盗聴器を探るが、何も出てこない。壁や床まで剥がして何も見つけられなかったハリーは、物悲しげにサクソフォンを吹くのだった。

 基本的には都会生活の中で孤独な男が妄想を膨らませていく話、ということができると思う。ジーン・ハックマンはそんな男であるところのハリーを好演している。ハリーは同業者からの名声を得ており、また男性的な魅力もないわけではない。しかし、自分をさらけ出すといったことだけができないために、どこか人との関係性(特に女性)がうまく築けていない。そのため、彼はひたすらに孤独なのである。

 何も孤独が悪いわけではないのだが、彼は音声をひたすら物として扱う手管に秀でいているがゆえに、おそらくは音声的な意味における感情の確かめあいについて、やや懐疑的な立ち位置にあるのだろうと推察できる。それは冒頭のユニオンスクエアを終えて、三ヶ所から収集された音声をうまく繋いでいく手腕にも現れているだろう。一種の編集が加わって初めて、彼は感情を理解できるのだ。

 コッポラは自身の脚本を映画化しているのだが、これは確かにそうとしか思えないような気もする。音楽の繋ぎ、場面の繋ぎは一級品で、非常に緩やかなストーリーであるものの観ていてまったく淀みを感じさせない。冒頭のユニオンスクエアを上空で撮影していき、少しずつ寄っていくところからして、まったく目が離せないわけで、そんな状態でクライマックスでもある殺人現場のフラッシュバックや隣室にハリーが入ったときのシークエンスもまたスリリングなのである。感心したのはハリーが隣室に入って、洗面所を見て、室内のベッドを見て、そのパンしていく先にハリーが当たり前のようにいる、ということで、この瞬間において一人称から三人称への視点の転換が効果的に取り入れられている。部屋に入った瞬間は(三人称から)一人称へ転換し、そのまま部屋の内部を映していった先にハリーを映すことで三人称に戻るのである。その後、トイレの水を流した途端に血が噴き零れ始めるところに繋がるわけである。

 非常に良い映画を観た、としか言いようのない映画で、コッポラの手つきのあまりの滑らかさにひたすら感心し通しであった。

『フラクチャード』(2019年)

 ブラッド・アンダーソンの『フラクチャード』を観る。Netflix映画。

 サム・ワーシントン演じるレイ・モンローは、リリー・レーブ演じる妻ジョアンとルーシー・カプリ演じる娘ペリとともに感謝祭の帰り道を車で走っていた。ペリがトイレに行きたいと言うので休憩所に停まって所用を済ませ、娘から目を離したところ、工事現場の近くで犬に襲われそうになっているペリがおり、彼女を助けようとレイは石で犬を追い払おうとするも、驚いたペリはそのまま足を滑らして工事現場の床に頭を打ちつけてしまう。ペリを助けようとしたレイも同じく頭をぶつけてしまう。目を覚ますとジョアンがペリを抱きかかえており、混乱してレイを叩くジョアンをレイは一度横に受け流し、ペリの様子を見る。すると彼女は息をしており、腕が痛いと言うので彼らは病院に向かう。病院で異常に待たされた揚げ句に、保険の確認のために根掘り葉掘り聞かれ、レイは以前のパートナーと死別していることが分かる。ペリが頭を打ちつけていることから念のためCTを撮ることになり、付添のためにジョアンと一緒に地下に向かったところで、レイは彼女らと別れることになる。待合で待てど暮せど彼女らは戻ってこないため不審に思ったレイは受付に彼女らのことを聞くが、まったく要領を得ない。ペリを診た医者は交代のため退勤しており、誰もペリのことを覚えている人物がいない。誘拐されたと感じたレイは、母娘を探すために病院中を駆け回ることになるが、レイ一人で病院に来たと言われる。一度は監禁されたレイは脱出し、警備員からも逃げることに成功する。巡回中の警察官とともにふたたび病院に戻り、ジョアンとペリを探すが、カウンセラーがやってきて一度現場に戻ることになる。事件のことをふたたび確認するものの、犬を追い払うために投げた石が娘に向かって投げたものだと言われ、現場に夥しい血が残っていることからレイが彼女たちを殺したと思われ、逮捕されそうになる。しかし、幻覚だと言われた犬が目の前に現れたことをきっかけにレイは、これが現実だと確信し、一瞬の隙をついて警官の拳銃を奪取する。警官たちを閉じ込めたレイは病院に戻り、地下に向かう。そこに彼女たちはいるはずなのだから。エレベーターの中で警備員と揉み合いになって彼を殺害し、エレベーター用の鍵を手に入れたレイは衝撃の事実を目の当たりにする。そこは臓器提供の箱がいくつもあり、体から臓器を抜き出していた。レイはジョアンとペリがそこにいることを確信し、手術室に入る。今まさに手術に執りかかろうとしているところを間一髪で救い出し、ジョアンとペリとともに病院を抜け出し、家に帰るのだった。後部座席には安心しきった彼女たちの姿が、いない。ペリはやはりあの工事現場で亡くなり、突き飛ばしたジョアンもまた死亡してしまったため、あまりのことにレイは現実を認識できなくなり、車に彼女らの死体を積み込み、手術中の赤の他人をジョアンとペリだと思い込んで拉致していたのだった。

 ブラッド・アンダーソンと言えば、私には『セッション9』(2001年)や『マシニスト』(2004年)の印象が強く、このいずれも造形に関するセンスは感じさせるものの、どことなく今一つな印象を受けるものだった。これら二作品を観た印象を元に、本作も考えていくことになるのだが、まずもってこの『フラクチャード』についてはミステリを目指したものではない。そのためこの作品の結末について、容易に予想がつくものの、この結末の意外性は作品としては二次的なものになるだろうと思うのだった。

 前述の作品から考えると、あの工事現場の「磁場」のようなものをブラッド・アンダーソンは描きたかったのだろう、と私は思っている。工事現場に引っかかっている風船は、その後明かされることになるのだが、病院のものである。そしてペリがどうして工事現場のところに近づいたかというと、あの風船に興味を引かれたから他ならない。

 あるシチュエーションがあり、そこにサム・ワーシントン演じるレイを投入する。そのときに発生しうる事態をトレースしていった結果として、数多のシミュレーションの一つとしてこの映画が作られている、といった印象を受ける。サム・ワーシントンはこの混乱したキャラクターをかなりの説得力とともに演じ切っており、はっきり言って一見に値する演技といっても過言ではない。

 レイがなぜ法定速度を守るのか。それは彼がかつてアルコール中毒患者で、元妻と一緒に交通事故に遭い、お腹の中にいた子もろともを失っているからだ。事故の過失は彼にあったのか、それとも単純に助けられなかったのかは分からないが。レイはなぜジョアンと冒頭、夫婦喧嘩をしていたのか。それは、法定速度を守っているために到着が遅く、そのために感謝祭のターキーは冷め切っており、また義両親からワインを勧められるからだ。

 状況は適切に整理された上で、意図的に混乱させており、その混乱をレイというキャラクターを通じて見たときの歪みに一定の説得性がある。そして、それを最後まで描き切っているところに、この作品の価値はあるのだろうと思う。ブラッド・アンダーソンの映画(今のところ3作品のみしか観ていないが)では、ベストだと思う。