Outside

Something is better than nothing.

頭頂部の景色

Exhausted

 特に意識したことはなかったのだが、人の頭頂部を見るときに、ふと彼か彼女かを前面から見るときと異なった印象を持つ、ということに気づいた。すべてが当てはまるわけではないし、好きこのんで他人の頭頂部を見るということはないのだけれども、ときおり電車の中、あるいは会社のデスク(私が相手の背後に立ち、相手が座ったまま話すとき)で、他人の頭頂部を見るとき、「ああ、この人はこういう人なんだ」という実感を持つ。

 これは確信ではない、脆弱な形での実感ではある。正面から人を見るときの印象は顔によって決まるといっても過言ではない。それは顔かたちが良い悪いという話ではなく、人にとり顔というものの持つ位置がそれだけ大きいのだ、ということなのだが、だからこそ、その相貌に現れない疲労や経験、あるいは「時間」そのものが、頭頂部にはある。

 若々しい顔を持つ上司でも、ふと頭頂部を見る機会に恵まれると、いくぶんか白いものが混じりつつあるわけで、どれだけ美しい女性でも、髪の毛の仔細を頭頂部から眺めれば、そこには何か整然としない混沌がある。

 うろ覚えの記憶なので間違っているのかもしれないのだが、古代中国においては頭頂部を晒すことは恥とされていて、頭巾で隠していたとか何とかという記憶があって、つまるところ、その恥の感性は、頭頂部が当人の印象を、彼我が持つ実感を超えてしまうというところにあったのではないか、と思ったり思わなかったりする。特に禿頭の場合、その実感の強化はさらなるものだろう。恐ろしいまでの乖離がそこにはあるのかもしれない。

 毛髪の有無にはよらないが、頭頂部から見た景色というものは自身の、あるいは他者の持つ印象を、まったく塗り替えてしまう経験になりうる。その意味において、私はなんだかばつの悪いものを見てしまった、という感を日々抱くようになったのだった。

コンディションの恒常性

Crystal

 たぶん誰にでも訪れるであろう代物ではあるのだろうが、三十歳になってから周囲との関係性や、二十代ならば抱きうるものだった熱情がすっかり失われてしまって、体の奥底にある熾火のような、熱はあるものの、けれどもどこか距離があるような、そういう状態に、ふとした瞬間に寂しさや、もの悲しさを感じる。

 同時に体の疲労感というものが変わった。以前はとんでもなく元気で、かつ、とんでもなく疲れる、といった浮き沈みの激しさのようなものがあったのだけれども、この一年間、かなり冷静に自分の体調というものを見ていく中で、そういう浮き沈みの激しさが自分の中から少しずつ失われているような気がしてならない。

 それはコンディションの恒常性が高まったのだろう、と一義的には思う。同時に感情の浮き沈みの少なさは、小説的な気運の減退ということにもなろうかと思う。私自身はずっと何かを書き続けていたような気もするのだけれども、その状態に身体が置いてけぼりになってしまう。

 コンディションがどんどん一定になっていけばいくほどに、身体性というものは透明になっていく。私の身体が、私の身体としてそこにあること、そのことが私の認識にとり、「当たり前」のものになっていくこと。

(この書き方は誤解を生むような言い方かもしれないのだが)女性の場合、この身体におけるコンディションの恒常性は極めて難易度の高いものかもしれない。私には妻がいるが、妻の身体にとり、恒常性を感じる瞬間というのは稀だ。

 以前は浮き沈みの振れ幅が私の方が大きかったし、よく病気に罹っていたが、今ではそれも逆転している。仕事も、疲れ果てて何もする気が出ないくらいだったのだが、今ではかなり余裕が生まれている。

 まだ体力と、失われていくあれこれが拮抗しているからそう思えるのだろうが、なんというか不思議な感興を覚える。身体性に焦点を当てたが、社会性もまた変化している。自分の身体が、社会の中に置かれたとき、かつてと今ではかなりあり方が変わっているものだ、といったような。

『運び屋』(2018年)

 クリント・イーストウッドの『運び屋』を観る。

 クリント・イーストウッド演じる九十歳のアール・ストーンはデイリリー農家として各地の品評会に出品しては注目を集めていたが、やがてインターネット通販により従来の商売スキームでは売り上げが芳しくなくなり、やがては銀行に農家を差し押さえられてしまう。それまでデイリリーの栽培に心血を注いできて、ダイアン・ウィースト演じる妻メアリーとは別れ、また実の娘であるアリソン・イーストウッド演じるアイリスは、彼女の結婚式に出席しなかったことから十二年あまりも口を利かなくなっていた。唯一、孫娘であるタイッサ・ファミーガ演じるジニーは彼に親しみを感じているが、差し押さえ後、彼女の婚約パーティーを訪れたときに他の家族から疎まれていることをまざまざと見せつけられてしまう。しかし、そこで彼女の友人が彼の仕事に対する熱心さと、免許を取得後、一度も違反していない優良ドライバーであることを買って、ある仕事を提案する。指定された場所に向かったアールは、怪しげな男たちによって車に荷物を積み込まれる。この荷をここからある場所にまで運べば、金を得られるという。アールは実に淡々と仕事を運び、初めての仕事を完遂する。そしてその金で孫娘の結婚式の資金援助し、少しだけ家族との絆を修復することができる。二度、三度と彼は運び屋としての仕事を行うようになり、そのたびに差し押さえられた農園や、退役軍人会への寄付を行う。彼の仕事ぶりは従来ならば考えられないほど破天荒で、ときおりは路上で困るドライバーに手助けし、また寄り道をして食べ物を買う。しかし麻薬カルテルのボス、アンディ・ガルシア演じるレイトンにとっては、最終的に積荷がある地点からまた別の地点までたどり着けばいいと、そう思っていた。ブラッドリー・クーパー演じるDEA捜査官コリン・ベイツは、ローレンス・フィッシュバーン演じる上司から期待され、麻薬組織の壊滅を目指して動くが、タタ(爺)と呼ばれる運び屋の存在を掴みかけていた。ある日、アールに監視がつくようになり、それと同時に彼の荷物は重くなる。彼はメキシコのボスの元に招待され、歓待さえ受ける。そのまま順風満帆かと思ったが、ある日、組織の中でクーデターが起き、ボスが殺され、これまで緩やかな締めつけが厳しくなり、アールへの締めつけも以前よりも厳しくなる。アールはこれまでのように寄り道ができなくなり、誰かを気ままに助けることもできなくなる。そんなある日、彼の元妻であるメアリーが危篤に陥る。ジニーから連絡が入り、すぐに来てくれと言われるものの、彼は自分の仕事があり、そしてまた締めつけがきつくなっていることを理由に断る。ジニーに罵られ、またメアリーの死に目に会えないと誰もが思ったが、アールはメアリーの元に戻ってくる。家族はふたたび絆を取り戻し、メアリーもまた、互いに愛を再確認しながら、亡くなっていく。葬式にも出席したため、行方をくらませていた期間は一週間にも上り、組織に捕まったアールはあわや殺されるところだったが、仕事を完遂させる命令が新しいボスから出て、彼はまた運び屋として積荷を運ぼうとする。だが、タタことアールを探していたコリンは内通者から彼の存在を嗅ぎ分け、とうとうアールは捕まってしまう。裁判で彼は自分の罪状を認め、刑務所に入っていく。あらゆるものは金で買えたが、家族との時間は買えなかった、と思いながら。

 老齢のイーストウッドを見るのは、もうこれで最後なのかもしれないし、それはたぶん『グラン・トリノ』のときに誰もが思ったのかもしれないし、私は未見だが『人生の特等席』こそが本当の本当に最後なのだ、という感想を持っていたのかもしれない。とはいえ、彼は九十歳の年老いた一人の男を演じ、また演じ切った。そしてそこにはただ単に俳優としての肉体があるのではなく、九十年という時間の重みを漂わせる時間の象徴としての演技も添えて。

  私はこの映画を素晴らしいと思うのだが、それは映画のテーマなのだろうと思う。この映画は、劇中、明確に描かれるように時間、それも失った時間とその修復についての映画であり、「九十歳」ではない私たちにとっては、その失われた時間というものは、「今後ありうるかもしれない時間」でもある。

 そしてその時間は、物語の筋としての「運び屋」を描きつつ、実際にはアールという一人の人間の積み重ねた(空白の)時間が描かれてもいる。その中には人生の中でもっとも重要な存在の一つであるパートナーとの間の、損なわれた関係性と、その修復がある。

 私はここで題材(運び屋)を否定したいわけではない。ただ「運び屋」を通して描かれた彼の仕事の時間(ある種の能力の高さやコミュニケーション能力の高さ、社会的な承認欲求の強さ)が、同時に彼の家族の時間(の空白)をも内包していることが、凄いことなのではないか、と思うのだ。だから画面の中に描かれる「運び屋」としての彼の姿は、ほとんど常に複数の意味を持ちながら、それでも画面自体のシンプルな力強さと、ささやかに提供されるBGMとによって、軽やかに、淡々と進んでいく。ただし背景にあるものは、膨大な時間である。