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正しさの判定と表面化されたバイアス

 

Bubbles

 機械的な正しさの判定というものはまだまだ難しいのだろうが、正しさの判定をするための情報については、アルゴリズムを使うことによって人々の選択の幅を調整可能にすることが可能になっているようだ、というのがこれから書きたいことではあるのだが、私はちょっと前に書いた「分断された現実の位相」(下記参照)という記事の中で、やや否定的に「正しさの判定」というものを取り上げた。

 それはSFの領域に属しているし、テクノロジーの恩恵を全面的に受容できるほど人間は賢明なのだろうか、と書いたのだった。実際、人間が進歩しているように見えて、そのテクノロジーの恩恵はもっぱら野蛮さに寄与しているようにも感覚的には感じられる。デジタルな世界は格差を均すことにではなく、拡大することに寄与しているわけであるし、その恩恵であるグローバル化というものは、一つの場所に留まるということを不可能にした。

 先のトランプの大統領選から判明したのだけれども、「マケドニアの若者たち」がSNSのエンゲージメントを稼ぐためにフェイクニュースサイトを立ち上げて、広告収入等を得るようになった。「クリエイティブ」な方法として発明されたのである。そのフェイクニュースを読んだ人々は記事の真実性について顧みずに、フェイクニュースに基づいて政治的な言動を行った。そして実際の選挙結果や襲撃の場に選定されたりと、現実にも影響するようになった。これらの政治的な状況が「ポスト・トゥルース」(ポスト真実)と呼ばれるようになって久しい。

 オバマが大統領だった時期にバーサーズが話題になったこともあるが、いくら公式にオバマの出生地がアメリカ国内だと言われていてもフォックスニュースなどは事実に基づかない情報を伝え続け、共和党支持者と民主党支持者との間で「オルタナティブ・ファクト」と呼ぶしかない、別種の事実を信奉する人々がすでにいた。その素地がトランプという極端すぎる人物の出現によって、一気に退っ引きならない状況にまで突っ切ってしまった、というのが現在のアメリカの状況なのだろうが、とにかくポスト真実の状況というものは、それが顕在化してしまった今となっては、人々に対して(政治的に)有効な手段として証明されてしまい、今後も引き続き用いられていく手法だろうと思う。 

 ただ人々の思想信条がポスト真実に基づこうとも、オルタナティブ・ファクトを見ようとも、WIRED.jpが年頭に述べたように、是非はさておいてエンゲージメントは稼がなければならない。

wired.jp

「同じ穴の狢」だと気楽に述べてしまうわけにもいかないのだが、経済が広告を要請し、広告がエンゲージメントを要請し、エンゲージメントがアテンション・エコノミーという注目さえ集めればいい経済倫理を要請してしまうわけである。「やっちまえ」という経済活動によって、その倫理性については問われることなく金銭を稼ぐことが可能になっている。その技術的な規制=機械的な正しさの判定は、そういったところでも無理なのではないかと推測していた。

 ニュースに対して、あるいはニュースサイト自身が、ポスト真実の状況下において、さまざまな方法を模索し、「タコツボ化」を回避しようとしている。Googleなどはニュースの真実性を検証するファクトチェック機能を検討していたし、パックンはメディアの格付けをするべきだと語っていたことが興味深いが(「『田舎の力をバカにしてたよね』 なぜトランプが当選したのか、パックンが語る“日本人の知らないアメリカ”」)、「ネットのタコツボ化"フィルターバブル"を破る方法とは?」という記事によると、前述したものに限らない、その他の方法も検討されていた。 

www.huffingtonpost.jp

  私個人としては、比較的すぐに技術によってこのポスト真実をどうにかしようとする発想と実行が出てくるところがアメリカの凄さだと思っていて、ここにあるのは(プログラミングするのは人間だとしても)非人間的な発想であろうと思う。

 フィルターバブルを打ち破るために、彼らの採った戦略というのは人間が記事を読む際に真実性をその知識や経験に基づいて判断するのではなく、あらかじめバイアスを表面化しようとするというものだ。

 そこでは読む存在としての読者の人生や知識や経験といった人間の側に属しているものは一切信用されておらず、たぶんデータとしても、先の大統領戦といった経験としても、人間は信頼できないものなのだという認識を持っているのだと思う。だからエンゲージメントを稼ぎつつ、そのオルタナティブ・ファクトを、セパレート・リアリティーを信じる人々の熱情を切り離して、単なるエンゲージメントに還元しようという企図がある。

 私はこの発想を凄いと思うのだが、いったいどれだけ効果が出てくるのかというところについては、あまり楽観はできないのかもしれない。

 

【関連記事】

 「流言蜚語」「デマゴギー」「ポスト・トゥルース」を整理したメモ。

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 文中で言及した過去の記事。

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グミの進化

gumi

 ハリボーのグミというのは妙な魔力があるもので、見かけるとついつい欲しくなってしまい、けれども噛んでいるうちにゴムっぽい臭い、お世辞にもいい匂いとは言いがたいスメルを発する瞬間もあって、あの弾力性のあるグミを噛み続けている自分はやがてゴム人間になってしまうのではないか、と子供の頃に考えていたことがある。ヨーロッパに住んでいたときに街中でお菓子取り放題だぜ!みたいな駄菓子屋があって、そこで日本のお菓子からしてみれば繊細さをあまりに欠いたお菓子たちが毒々しく輝いていたのだけれども、その中でもハリボーのグミというのは例外的に「健康的」だった。

 そういえばベルギーにいた頃、何やら赤々しい着色料が添加されたスポーツドリンクなのか分からない代物をベルギーの子供と一緒にサッカーをやったあとにクラブからもらったりするのだけれども、それは彼らにとって当然の着色なのかもしれないのだが、幼心に「そりゃねえよ!」としか思えない、人間の色彩感覚からすれば危険信号を発している色合いの飲み物をどうしても一気呵成に飲むことができなくて、「何このジャパニーズ、うぜーぞ」みたいな目でベルギー人に見られている私は、恐る恐るその液体を口につけると、「うわー出たー」と初めから予想していたように薬っぽい味がしたものだった。

 とはいえ、グミに罪はない。

 日本のグミ事情というものは業界人でもないからあまり詳しくは知らないのだけれども、昔は柔らかいグミが多くて、あってもUHA味覚糖シゲキックスくらいがあったのだけれども、あれはグミというよりはシゲキックスというジャンルとしか思えなくて、だからハリボーというのはかなり特権的な位置を占めていたような印象を抱いているのだが、最近はハードグミが流行しているのか必ずしもハリボーに信仰を捧げる必要もないくらいにグミ事情は充実の一途を辿っている。

 けれども、最近ドラッグストアに立ち寄ったときにまたしてもUHA味覚糖なのだけれども、「グミサプリ」なるものを見つけてしまい、「いったいこれは何ぞや」と思っていると、名前の通りに栄養を補給するためのグミということもあってせっかくなので買ってみた。

 自分用にビタミンC、妻用に鉄&葉酸を購入してみたのだが、これがまた美味くて硬さもちょうどいい。鉄&葉酸なんて延々と口の中に放り込みたいくらいである。先ほどグミに罪はないと述べたのだが、私は親をグミに殺されている身であるためにグミを敵だと思ってついついたくさん食べてしまうのだが(チックタックも同様なのだけれども)、このグミサプリもまた同様に敵としか思えなくて、ついつい一日二個と決まっているのに、その倍を食べてしまいたくなる。

 思えば遠いところにまで来たものだ、と思わざるをえない。

UHA味覚糖 グミサプリ 鉄&葉酸 30日分 60粒

UHA味覚糖 グミサプリ 鉄&葉酸 30日分 60粒

 

 

【関連記事】

  チックタックなどについて。

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『ビースト・オブ・ノー・ネーション』(2015年)

 キャリー・ジョージ・フクナガの『ビースト・オブ・ノー・ネーション』を観る。Netflixで視聴可能。

 アブラハム・アター演じるアグーはアフリカで家族とともに住んでいたが政情が不安定になっていき、男たちは代々の土地を守るために戦い、女子供は首都に疎開するということに決まるのだが、疎開する際にタクシーに母子を乗せてもらうように父親が頼むものの、運転手は母親と幼い妹しか乗せてくれず、結局アグーは父や兄、盲目の祖父とともに村に居続けることになる。間もなく政府軍が村を襲い、反乱軍のスパイということで彼らを射殺し、兄とともになんとか逃げ延びようとするものの兄も殺されてしまう。アグーは茂みを彷徨い続けることになるのだが、そこでイドリス・エルバ演じるコマンダント、司令官と呼ばれる男に拾われる。彼は反乱軍の部隊を率いる司令官で、アグーは少年兵として彼の部隊に組み込まれることになる。そこでアグーは初めて人を殺し、司令官の性処理を行い、口の利けない同じ少年兵と友情を育ませ、ガンパウダーを経験する。司令官に気に入られたアグーは彼とともに行動することが増えるが、司令官の上司である総司令官と戦後処理の国際社会における立場が食い違い、部隊を副官に渡されそうになるので娼館で副官に怪我を負わせ、反乱軍から分離独立して部隊を率いていくようになる。しかし補給も乏しく次第に物資が尽きつつある司令官に従う者も少なくなり、部隊のメンバーは部隊から離れることに決める。その後、アグーはリハビリ施設に送られるが、かつてのメンバーはふたたび戦争に戻っていく。アグーはなかなか打ち解けることのできなかった施設の子供たちとともに海に行くシーンで映画が終わる。

 キャリー・ジョージ・フクナガの作品は『闇の列車、光の旅』(2009年)、『ジェーン・エア』(2011年)と観てきたのだが、作品ごとに舞台が大きく変わる印象がまずある。その上で、この作品はけっこう長い間、存在を知ってはいたもののなんとなく敬遠していた。正直なところ、あまり関心が向かなかったというところがある。ただ『ジェーン・エア』を先日観て、やっぱり観なければならないよなあと思い直して視聴を決めた。

 結果的にはよかった。アグーを演じたアブラハム・アターの演技が凄い。少年兵という体験を経ながら、そしてガンパウダーで特徴的な幻覚が訪れるシークエンスがあるのだが、そういった錯乱、あるいは性的に未発達にもかかわらず司令官との性行為を行ってしまうなど、「子供」という存在にとって混乱することばかりの経験の中で、アグーというひとりの少年を通して、戦争というものを冷徹に見ている。そして、その説得力が彼の演技の中にある。冒頭の外枠だけあるテレビに、子供たちが自分たちで番組を作り上げて遊ぶ空想テレビの下りなどの明るい描写もよかったし、だんだんと緑色が増えていき、それが反転して妙な色になってしまう薬物のシーンもまたよかった。陰惨というしかないのだが、その陰惨さを描き切っているところが凄いのである。例によって光線の具合もかなり好みの部類に入る。

 初登場時に司令官のカリスマ性が、だんだんと地位や名誉、あるいは面子といったものによって剥がれ落ちていき、娼館で女を抱いたときから下降の一途を辿り始め、最終的には殺す価値すらないような形で決別していくという流れもまたいい。

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[2017年2月16日、誤字修正]