Outside

Something is better than nothing.

『パラサイト』(2019年)

パラサイト 半地下の家族(字幕版)

パラサイト 半地下の家族(字幕版)

  • 発売日: 2020/05/29
  • メディア: Prime Video
 

 ポン・ジュノの『パラサイト』を観る。

 父母息子娘の四人家族は全員失業中で、近隣家庭のWi-Fiを又借りし、ピザ箱を組み立てるような内職をして糊口を凌いでいたのだが、ある日、チェ・ウシク演じる息子ギウの友人パク・ソジュン演じるミニョクからパク家の家庭教師の話を持ちかける。自分は留学してしまうし、その家のチェン・ジソ演じるダヘに恋するこの男は、親友ならば横取りしないだろうと思う。そして一家に山水景石を授ける。その石が功を奏したのか、私文書偽造を行って名門大学出身と偽ったギウは、パク家に赴きチョ・ヨンジュン演じる妻ヨンギョと面会し、ダヘの家庭教師をする傍ら、帰り際、息子のチョン・ヒョンジュン演じるダソンの「天才」的感性に目をつけ、さりげなくパク・ソダム演じるギジョンを美術の家庭教師に薦めまでする。そして、後日、ギジョンは無事にダソンの家庭教師となり、その初日、イ・ソンギュン演じる夫ドンイクの指示でドライバーに家まで送られることになったギジョンは、言い寄ってくるドライバーにバレないようにこっそりと下着を残す。そのことがきっかけでドライバーはあらぬ誤解が生じて、パク家のドライバー不在問題にかこつけてギジョンはソン・ガンホ演じる自分の父親ギテクをドライバーとして紹介する。さらにイ・ジョンウン演じる家政婦ムングァンが桃アレルギーであることを聞きつけた彼らは、最後にチャン・ヘジン演じる母チュンスクを送り込むために結核疑惑を作り出して追い出すことに成功する。かくして、パラサイト計画は成功したかのように見えた。ところがある日、パク家がダソンの誕生日をきっかけに家を不在にした日、戦勝とばかりに飲み明かしているときにムングァンがやってくるところから事情が変わる。渋々家に入れたチュンスクは、彼女が家の地下室にある扉を開けたところ状況が一変する。そこには北朝鮮の侵略に備えて富裕層家庭に備えつけられた地下室の存在があった。その中にはパク・ミョンフン演じるオ・グンセがいた。彼らは夫婦関係で、妻が家政婦をやっていたという環境を利用して食べ物をあげていた。彼らの間で諍いが起こり、そうしている間にパク家が急遽帰ってくることになる。ムングァンはその過程で頭部に怪我を負う。家から抜け出そうとする一家だったが、いろいろとトラブルに巻き込まれた挙句に大雨の影響で自宅は水没してしまい、近くの体育館に避難している。だが翌日にはダソンの誕生会を行うということで、ギテクは準備のために呼び出され、ギウもギジョンもお呼ばれすることになる。ギウはある一つの決着をつけるために山水景石を持っていく。しかし地下室に入ったギウはオ・グンセに反撃され、逆に頭部に怪我を負う。そのまま彼はパーティーに乱入してギジョンを攻撃し、チュンスクにも怪我を負わせる。彼らを助けようとギテクは間に入ろうとするが、そこで彼はどうしてだか包丁を持ち、ドンイクを殺してしまう。その場から立ち去るギテクだったが警察は彼を捕まえることができない。ギジョンは亡くなってしまい、ギウやチュンスクは罪に問われることになる。ギウはある日、かつてのパク家の場所にギテクの痕跡を見つける。彼はあの家にいるのだ、と。そしてギウはいつかギテクと再会する日を夢想するのだった。

 非常に素晴らしい映画だった。階級をはっきりと描いており、そしてそれは当然に階級差別を意味している。その中に象徴的に描写される「臭い」があり、それは半地下の家に住むキム家と、キム家が象徴する下層にも漂っているのだろう。そして対照的にパク家は(明確に描かれていないが)良い匂いがするのだろうと思うのだし、この脱臭された空間が建築家によって作られた家ということになるのだろう。

 撮影も美しく、場面場面に意味があり、構図もまた素晴らしい。少しずつ破綻に向けて流れていくこの映画の時間もまた(逆説的ではあるのだが)心地よいと感じてしまうくらいで、最後にあのギテクの包丁によってクライマックスを迎えることになる眩しさもまた素晴らしい。

数々の毀損と後退

 

 2020年という年がもともと喜ばしいものとしてあったのかどうかということを考えるとそうでもないような気がしないでもない年の瀬に、今年の振り返りを行おうということはどこか暗く、そして冷たい予感を覚えるのだが、しかしそれは致し方ない類のものであるような気もする。

 さて、今年は「読むこと」を一つのテーマとして動いてきて、これは本を読むだとかそういうことも含めて、あるいは私の仕事において(確実な一つの要素である)書類を読んでいくようなそういうことも含めて、かなり広い意味で「読むこと」をテーマにしていたのだが、結果的に言えばこれは成功したと言っていいだろうと思う。

 従来よりこの「読むこと」について、私は重きを置いてきたし、そうであるがゆえにその態度が間違っていないかどうか不安でもあったが、年の瀬になって思うのは読むこと、そしてそこと向き合うことで確信を得られる明晰さのようなものについて、このとんでもない一年を考えた上でも、正しかったのだ、と結論づけたい。

 言うまでもなく新型コロナウイルスにより多くの人々が亡くなり、また感染したが故の身体的、社会的な悪影響を被り、また感染していない(あるいは無症状)人々であっても諸般の制限と経済的な苦しさがあったのだろうと思う。

 とはいえ、実体経済と金融市場の乖離が凄まじく、この年末に日経平均バブル崩壊後の最高値を更新することとなったし、ダウ平均株価も最高値を更新することになった。ピケティが『21世紀の資本』の中で資本収益率は常に経済成長率を上回るということを実証していたと思うが、まさにそういうことを感じさせるものだった。端的に言えば資産から得られる収入は労働から得られる収入よりも多くなるという、雑な理解を前提に、おそらくこの実体経済と金融市場の乖離と、そこに関する違和感は多くの人が抱いたことだろう。

 これは端的に不公正なものだ、と感じるが、そこに至るための補助線として、私は昨年同様にブレイディみかこの「エンパシー」という考え方を挙げたい。私はこの乖離はエンパシーの不在を思わせる。

「ええっ。いきなり『エンパシーとは何か』とか言われても俺はわからねえぞ。それ、めっちゃディープっていうか、難しくね? で、お前、何て答えを書いたんだ?」
「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathy は「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。(ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー、P.73)

 数々の毀損を行った/行われた果てに、他者への想像力がなくなってしまったこと、そして他者を「読むこと」がなくなったこの後退局面において、エンパシーこそが一つの「地べた」になるのではないか、ということが私の今年の総括である。

遠い感覚

Beach

 少し前に鎌倉に行って、その海岸線を歩いた。どうしてだかふと海に誘われて、というような感覚があって、どこにも行く予定がない連休に私たちは海岸に立った。秋口で、まだ肌寒さはなかったけれども、海水浴のシーズンではなかったから人は少なく、それに世間としては平日だったのもあって、静かで寂しい景色だった。

 この景色を、私は知っている。そう、直感したのは私が尾道水道を毎日のように通っていた過去があるからだが、かといってその尾道水道には浜辺はなく、私の今はなくなった実家から自転車で二、三十分の(しかも長い長い坂を登って)ところにある浜辺で、別に海水浴場というほどではないのだが、そこは私たちには馴染みのある場所だった。そこに住んでいれば、人生のうちに必ず一度は訪れるような。

 江ノ島駅で降りた私たちは観光客が江ノ島に向かって歩くところからどんどん外れてただただ海を求めて歩いた。ウミガメのように、と言えば小説的な比喩なのかもしれないのだが、正しくは無軌道に、と言うべきだろう。

 車がひっきりなしに往来して、決して静かではないけれども、視覚的な音響が静かで私は落ち着いた。ややもすると感傷に囚われているように見えるかもしれないのだが、そういうわけではなく、感傷というよりは遠い遠いところにある何物かに触れ、そしてそれが非常に懐かしい感触であるような、そんな感触だった。例えばもう死んでしまった飼い犬たちの、撫でつけると生き物の感触を伝えるあの毛のような。

 今では無軌道にも多少の方向性が生じる。スマートフォンGoogleマップを開いて次の駅に向かう算段をつけた私たちは狭い歩道を仲良く歩いて行った。旅情というよりも、田舎道で出会う農作業の老人を思い出すような、そんな足取りである。すべてが遠い感覚を呼び起こすようだった。

 例えば手のひら。風に煽られて私の手のひらは少し浮腫んでいるような、そんな感覚角を伝えていたが、それは長時間、こうやって歩かないと起こり得ないようなもので、その感覚自体は日常的に折に触れて体験していたようにも思うのだが、そのときのように意識的に手を見、感じた瞬間はなかったように思う、ここ最近。

 自宅周辺のどこを見ても懐かしいとは思えない土地の無機質さが、ここでは全く異なる様相を告げていて、私はどこを歩いているのかしばしば忘れた。その忘却の果てに、私たちは目的地に辿り着いたのだけれども。