Outside

Something is better than nothing.

『屍人荘の殺人』(2019年)

屍人荘の殺人 (創元推理文庫)

屍人荘の殺人 (創元推理文庫)

 

 木村ひさしの『屍人荘の殺人』を観る。原作は未読。

 神木隆之介演じる葉村譲は、中村倫也演じる明智恭介と共に、神紅大学でミステリー愛好会として活動を行う傍ら、ホームズとワトソンのごとく学内での出来事に関わり、解決したりしなかったりといったことを行っていたが、そんなある日、ひょんなことから浜辺美波演じる剣崎比留子と出会い、彼女の紹介で昨年何かが起こったらしい音楽フェス同好会の合宿に付き添うこととなる。しかし、そのフェスでは何者かが薬品をばらまいたことで観客がゾンビ化してしまう。一行はフェス仲間でOBの七宮の所有する紫湛荘に逃げ込むが、明智をそのときに失ってしまう。焦燥する面々だったが、館の中で殺人事件が起きてしまう。ゾンビの猛襲と、館内の殺人事件の両面に曝された面々は、しかし剣崎の機転に助けられながら、一応の解決を見せ、最後には救われていくのだった。

 ただのミステリーものかと思ったらゾンビものをうまく融合させ、結果的に「密室」というものに対する多様な解釈を可能にしている作品である。ほとんど二時間ドラマ的な進行を行いつつも、格別な破綻がないのは主にキャラクター面で神木隆之介浜辺美波の存在が際立っていたからだろうと思われるのだが、実際のところ、本質的に言えば(おそらく)原作での素材の吟味の仕方が絶妙であった、という一点に尽きるのではないか、という気がしなくもない。

 シリーズ第一作といった出発ではあるものの、肝心のゾンビウイルスは何だったのかといった点などは格別興味がないのかもしれないところで、それもまたある種のゾンビものとしての絶妙さがある、と考えるのは少しひねくれているだろうか。

ネクタイの長さ

necktie

 思い返すと社会人生活を送るまで、私はネクタイを日常的に締める習慣がなかった。中高生は学ラン――始めて知ったのだが、学ランというのは学生が着るランダ(洋服)という意味から来ているらしい――で、ネクタイを締めることはなかった。だから就職活動を行う過程でネクタイを締めるようになったのだが、締め始めた当初は長さに困った。どうしても、大剣と小剣のバランスがうまく取れなかったのである。私はいわゆるダブルノットという結び方がもっともしっくり来る結び方であったので、それを覚えて以来、もう無意識でも締められるようになってきたのだが、それでも慣れるまでの間は困ることが多かった。

 先日、ようやく冬を感じられるようになって、ネクタイでも新調するかと思って新しいネクタイを購入した。で、新しいネクタイを無意識で締めて仕事に出かけて、トイレに行ったときに鏡を見て驚いた。微妙にいつものしっくり来る長さではなかった、のである。大剣と小剣のバランスが少し違うような気がして、大剣側の長さが異様に長いように感じられた。

 しかしながら、ちょっと見ではそのバランス感覚の崩壊は分からない。いちいち外して締め直すのもなんだか面倒臭いようにも思えて、その日はそのまま仕事をした。居心地の悪さは続いて、それは家に帰るまで続いた。やはり、締め直せばよかったと後悔もした。

 少し話は変わるが私は制服が嫌いではなくて、仕事中もできる限りビジネスパーソン上の制服、であるところのスーツでいたいと思っている。私服である自分というのは、本質的な意味でプライベートな瞬間であると思っている。そのため、仕事で知り合った人と私服で会うことにかなり躊躇いがある。それは私服で会うことで、自分のプライベートな部分についても披露しなければならないと感じられるからであろう。会おうと思えば会えるけれども、積極的に会いたいとは思わないのは、そういった理由があるからだと思われる。

他人の恋愛、あるいは『四百センチ毎秒の恋』について

LOVE

 人々はある時期を過ぎると、自分の恋愛がひと段落したのか、それとも自分の恋愛がどうあっても成就し得ないものだと理解したからか、なのか分からないのだが、他人の恋愛に熱中し始める。ただしこれはすべての、という言葉を冠するには、あまりにも範囲が広過ぎるようにも思うし、けれども私は、と書き出すとあまりにも範囲が狭過ぎるような気もする。熱中と書いたが、それは当事者の熱量を凌ぐものでは決してない。けれども、自分の抱えている些事への熱量と比べると、明らかな相違がある。私はよく彼らと話すたびにその一瞬の熱量について首を傾げざるを得ない。一体、これはどういうことなのだ、と。

 西村取想『四百センチ毎秒の恋』(NT書房、2019年)はそういった詩集――短歌集である。私はこの貴重で、瑞々しい「他人の恋愛」の塊のような代物を偶然知り得たが、いざ自分がこれを購入までして読んでいるのかというと、他人の恋愛への熱狂があったからだ、としか言いようがない。ここでの西村/Kの恋愛模様は自分の人生にいささかも関係ないものだし、これからも関係しないだろうが、(西村の)短歌と(Kの)短評とが絶妙なリズムを作り出して一つの音楽のようになっている。それはふられた男とふった女という単純な関係性に留まらないものだろう。

(詳細はあまり知らないが)歌垣というものも一つこのような形にあったのではないか。男は延々と歌を詠み続け、それに応える女はただただ男を挑発していく。もちろんKは歌人ではないのだから歌を詠む義理はないのかもしれないのだが、西村が延々と歌を詠んでいるひたむきさは、古代の歌垣のような、言霊を用いる様を想起させる。

 ところで、誰が言ったのかは忘れたが、創作者として何かを書く際に意識せざるを得ない言葉が一つあって、それは詩人が詩を、とりわけ恋愛についての詩を書くとき、明確な対象者へ向けて書くよりも、女神や天使といった不明瞭な対象に向けて書く方が出来が良い、という言葉であった。本邦においてしばしば詩とは親密なコミュニケーションの手段であったということを考えるときに、この「文学」の言葉は一つの警句として重たく響くように思われる。

 西村の試みは部分的に成功しており、部分的には失敗している。金山仁美は解説の中で「短歌としては不出来だろう」(P.94)と、一部の短歌を評しているが、それは素人目にも何となく分かる類の失敗だ。ただしその成否は必ずしも文学的にのみ評価されるのかという点は(解説の金山の射程にもあるように)留保が必要だろう。この本は短歌を超えて小説/エッセイのような代物となっているところで、一つの評価軸に収斂していくのは難しいのかもしれない。

 一つ一つの短歌を評する能力は私にはないが、最後に気に入った短歌を一つ引用したい。

砂浜にできた存在証明を波より先に壊しあったね(P.45)

 一瞬意味が取れなかったのだけれども、ああそういうことかと思った瞬間に、何か思い出を喚起するものがあったのだろう、頭の中に閃いて消えた。西村/Kの応答は、長い人生の中では一瞬の「存在証明」に過ぎなくて、やがてどちらかが自発的に壊さなくとも波が自然と壊してしまうものなのかもしれないのだ、という年寄り臭いことを言い添えたくなってしまうのだが、実のところ私たちはその存在証明を他人に求めることができ、その他人の存在証明が発する熱を受け継ぐことができる。

 

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