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『キングコング: 髑髏島の巨神』(2017年)

キングコング 髑髏島の巨神

キングコング 髑髏島の巨神

 

 ジョーダン・ヴォート=ロバーツの『キングコング: 髑髏島の巨神』を観る。

 1944年の太平洋戦争中、戦闘の最中に髑髏島に不時着した米軍兵士とMIYAVI演じる日本軍兵士とは、不時着してもなお争っていたのだが、その島である巨大生物が蠢いていることを知る。時代は変わり、1973年、ベトナム戦争から撤退を宣言した当日のアメリカで、特務研究機関モナークの一員ジョン・グッドマン演じるランダは人工衛星が映しだした髑髏島の写真を手に、上院議員に調査を依頼する。渋る上院議員を冷戦下の状況を利用して唆し、見事にチームを組むことに相成ったわけだが、そのメンバーの中にトム・ヒドルストン演じるジェームズ・コンラッドという、元英国特殊空挺部隊隊員の男を雇い入れる。サミュエル・L・ジャクソン演じるプレストン・パッカード大佐の部隊が彼らを護衛し、またブリー・ラーソン演じるメイソン・ウィーバーがカメラマンとして随行することになる。嵐に覆われた島に向かうため、母艦からヘリコプターで飛び立った彼らは強行突破の末に島に辿り着く。当初の予定通りに島中に調査用のサイズミック爆弾を投下していくのだが、その爆発音にコングが姿を現す。そう、かつて二人の兵士が目の当たりにしたのは島の守護神であるこのコングだった。コングの圧倒的な力の前に、近代兵器で武装した米軍部隊は壊滅的な被害を受ける。散り散りになった部隊と一行は、ラングから当初の目的は調査などではなく、人類を脅かしかねない彼らを屈服させることだったのだ、ということを知る。しかし、その島は人間の児戯のごとき力をあざ笑うかのように隊員たちはひとり、またひとりと自然の前に敗れ去っていく。コンラッドは集落に辿り着くが、そこでジョン・C・ライリー演じるハンク・マーロウに出会う。彼こそが1944年にこの島に不時着した兵士のひとりだった(日本人兵士は亡くなってしまった)。彼からグレイ・フォックス号という船があることを知った一行は三日後の母艦との合流地点を目指すため、川を遡り始める。しかし大佐は仲間を殺された恨みを晴らすことができず、コング打倒に力を注いでいた。島民やマーロウからコングこそが人間を守る守護神であり、スカル・クローラーという怪物が跋扈しないようにしているということを知ったコンラッドは、大佐の計略を阻止するために奮戦する。コングをあと一歩のところまで追い詰めた大佐だったが、コンラッドたちの行動により阻止されてしまう。彼らは島を脱出するために船を走らせるが、巨大なスカル・クローラーが現れ、彼らを執拗に追いかける。しかし、そこに弱ったはずのコングが現れ、彼らを助けてくれるので、一行も応戦する。なんとか島から逃げ出した彼らは、しかしこの髑髏島が一端に過ぎないことを知るのだった。

 大傑作。

 途中からにやにやが止まらなくなった映画であり、それはもうかなり冒頭の、タイトルクレジットの辺りからであった。冒頭、不時着する二人の兵士の図からして好ましく、そこから時代が第二次大戦の空間からベトナム戦争(冷戦)へと至る過程も好ましいし、各種の美術もまた素晴らしい。恐ろしいまでに好ましい空間の中に、ジョン・グッドマンのいかがわしい存在が全面に押し出されたラングという登場人物が出てきて、何やら怪しい計画が練られていることを窺わせたあとに、ベトナムやタイなど東南アジア地域の、やや問題のある表現の仕方かもしれないのだが、アジア的ないかがわしさに満ちた空間が描かれたあとに、コンラッドの『闇の奥』、コッポラの『地獄の黙示録』といった連綿とした時空間があった上での現代的なキャラクター配置としてのサミュエル・L・ジャクソントム・ヒドルストンが出てきた辺りで、もうノックアウト寸前であったのだが、個人的にはカメラマンとして随行するブリー・ラーソンもよかった。

 というより人物的な描写はさておくとしても、問題はヘリコプターなのである。例えばマイケル・ベイは軍隊や兵器を描かせるといかにも格好良く撮ることのできる監督である、といった評価がされているが、この映画の中のヘリコプターの格好良さは半端ない水準に達している。かなり久しぶりにこういった描き方をされるヘリコプターを観たような気がするのだし、そしてその墜落に至る描写の迫力もまた、正直言って驚いてばかりだった。CG等の技術発展に伴い、いくらでも描きようがあるのかもしれないのだが、墜落というイベントを元にしたとき、どういうことが起こってしまうのか、といったことを丹念に描き出しているような気がする。そして墜落の要因は圧倒的な暴力としてのコングの出現によるものであるのだから、当然にその墜落過程は暴力的でなければならない、という逆算がきちんとできている。ヘリコプターはここで単に墜落するのではない、コングによって暴力的に為す術もなく墜落するのである、という当たり前のようでいて、当たり前に処理しづらい状況を、ものの数秒のシークエンスの中に詰め込んでいる。これは唸るしかなかった。

 伊藤計劃ピーター・ジャクソンの『キング・コング』評の中で、たしかナオミ・ワッツの前歯について触れていたような気がする(そして伊藤計劃の『キングコング: 髑髏島の巨神』評を読みたかった!)。要するにここでのコングの描かれ方がある種の引きこもり的な青年(おっさん)であり、ナオミ・ワッツの美しさに惹かれてニューヨークくんだりまで出かけてしまった的な感じで書いていたと思うのだが、この映画には逆にそういう青年期におけるなよなよした描写のようなものはない。背中は明らかにおっさんなのだが、おっさん的な哀愁が見受けられない。

 例によって『METAL GEAR SOLID V』を初めとしたメタルギアシリーズの影響も、グレイ・フォックスに顕著ではあるのだが見受けられる。最新作でのサヘラントロプスという巨大ロボット登場の演出とこのコングの演出というのは、似ているような気がした。とりわけコンラッドとメイソンが崖の上にいるとき、夜の霧の中からコングが現れるシーンなど。

 この映画は、とにかくさまざまな観点から語るべき大傑作であることは間違いなく、まさかこんな映画が観られるとは思わなかった。

 最高!

延期という言語

The Swimmer. Yaddo. Saratoga Springs, New York.

 そういえばこの言葉を聞いたのは高校時代の体育祭のことで、リーダー的な奴がどういうわけか「Postpone、延期する」と連呼していて、頭の中にこの言葉がこびりついて離れなかった。

 当時の私は例によって馬鹿な高校生のひとりで、要するに英単語なんて何一つ知らない、みたいな風で生きていたのだから、この言葉を聞いたときに、ああやっと経験の中から身についた英単語として「postpone」という言葉が私に与えられたんだな、と思ったのを覚えている。

 とはいうものの、今に至るまでこの言葉を使う機会には恵まれておらず、何となく頭の中でその言葉のリズムのよさや語感のよさが気に入っているのだけれども、しかしやはり使う機会はない。

 英会話の中において、どういうタイミングでその言葉を使うのだろうか。

 私はべつだん日常的に英語を使う人間ではないのだけれども、海外旅行に行ったときなんかはたどたどしい英語で喋る機会があって、なんとか懸命に頭の中から単語をひねり出して喋ろうとする。しかし、どうあっても「postpone」を使う文脈に至ることはなく、しかしなぜこの言葉が高校生の英語の語彙に結びついたのかということに関して、非常に疑問に思う。

 しかし、英語教育というものはおおむね無駄になってしまう宿命にあるわけであり、私の敬愛していた大学の教授は、むしろ英語を覚えさせないために10年間(中高大通算したとして)英語を扱っているのだ、ということを仰っており、それはそれでなるほどと思わなくもないのだった。

 昨今の就労状況において、「上」の世界の人間はグローバルにどこでも働くことができ、「下」の世界はそうではない地元の、ローカルな世界に甘んじなければならないといった論調があるときに、言語というものの習得の有無というものは「上」の世界への切符の一つにはなるだろうと思う。もちろん英語ができたからといって、即座に「上」に繋がるわけではないのだけれども。

 つまりは日本に閉じ込めるための英語教育10年間の無駄、ということはあるのではないか、と与太話の一つとしては考えるわけであり、無論のこと一考する余地もないのだが、しかし英語というものは習得が延期され続けている言語なのだ、と日本に限れば言うことができるのかもしれない。

『サイド・エフェクト』(2013年)

 スティーブン・ソダーバーグの『サイド・エフェクト』を観る。

 ルーニー・マーラー演じるエミリーは夫がインサイダー取引によって服役していた最中にうつ病を発症し、夫が出所後もうつが再発したことから、地下駐車場で壁に激突し、自殺を図ろうとしてしまう。そのときにジュード・ロウ演じるジョナサン・バンクス博士がエミリーの担当となり、薬物治療を行っていくのだが、薬の副作用になかなか慣れないエミリーはある薬の広告を見たことで興味を持ち、夫の性生活もうまくいかないことから夢遊病の副作用を受け入れた上で、投薬治療を進めていく。しかし、ある日、彼女は夢遊病の最中に帰宅した夫を刺してしまい、意識がないまま彼女は殺人の被疑者になってしまう。ジョナサン医師は薬の副作用による可能性が高いと述べるが、そのことで自分の築き上げてきたキャリアが同時に崩れて行ってしまう。しかし彼は事実を丹念に追っていくと、エミリーがうつ病を患っていたわけではなく詐病だと築く。以前に彼女の医師だったキャサリン・ゼタ=ジョーンズ演じるヴィクトリア・シーバート博士の論文を見たことで疑念は深まっていき、実は彼女たちがレズビアンの関係で、共謀して犯行を計画していたことが判明する。彼は家族の信頼を失い、同僚からも蔑まれながら、それでも掴んだ真実に基づいて彼女たちの犯行を暴いていく。一度は無罪になったエミリーは同じ罪で二度裁かれないため、精神病棟に治療の必要性があると診断し収監させ、シーバート博士は警察に捕まえさせる。ようやくジョナサンは家族の信頼を取り戻すことができたのだった。

 前半部分と後半部分の明確なストーリーの相違が面白く、最後まで飽きないものだった。前半部はエミリーのうつ描写がかなり堪えるもので、観ていると辛さが伝わってくるのだが、後半になるにつれて一体何が真実なのか分からなくなってくる。

 ルーニー・マーラーは詐病を演じつつ、目的のために手段を選ばない女性を好演し、キャサリン・ゼタ=ジョーンズは怪しげでセクシーな医師を好演している。とはいえ、ジュード・ロウの実に真っ当な医師っぷりが、キャリアの崩壊に伴って少し偏執狂めいていく過程の描き方はなかなかエグいものがあり、その意味で彼がもっとも好演していただろうとは思うのだった。