Outside

Something is better than nothing.

延期という言語

The Swimmer. Yaddo. Saratoga Springs, New York.

 そういえばこの言葉を聞いたのは高校時代の体育祭のことで、リーダー的な奴がどういうわけか「Postpone、延期する」と連呼していて、頭の中にこの言葉がこびりついて離れなかった。

 当時の私は例によって馬鹿な高校生のひとりで、要するに英単語なんて何一つ知らない、みたいな風で生きていたのだから、この言葉を聞いたときに、ああやっと経験の中から身についた英単語として「postpone」という言葉が私に与えられたんだな、と思ったのを覚えている。

 とはいうものの、今に至るまでこの言葉を使う機会には恵まれておらず、何となく頭の中でその言葉のリズムのよさや語感のよさが気に入っているのだけれども、しかしやはり使う機会はない。

 英会話の中において、どういうタイミングでその言葉を使うのだろうか。

 私はべつだん日常的に英語を使う人間ではないのだけれども、海外旅行に行ったときなんかはたどたどしい英語で喋る機会があって、なんとか懸命に頭の中から単語をひねり出して喋ろうとする。しかし、どうあっても「postpone」を使う文脈に至ることはなく、しかしなぜこの言葉が高校生の英語の語彙に結びついたのかということに関して、非常に疑問に思う。

 しかし、英語教育というものはおおむね無駄になってしまう宿命にあるわけであり、私の敬愛していた大学の教授は、むしろ英語を覚えさせないために10年間(中高大通算したとして)英語を扱っているのだ、ということを仰っており、それはそれでなるほどと思わなくもないのだった。

 昨今の就労状況において、「上」の世界の人間はグローバルにどこでも働くことができ、「下」の世界はそうではない地元の、ローカルな世界に甘んじなければならないといった論調があるときに、言語というものの習得の有無というものは「上」の世界への切符の一つにはなるだろうと思う。もちろん英語ができたからといって、即座に「上」に繋がるわけではないのだけれども。

 つまりは日本に閉じ込めるための英語教育10年間の無駄、ということはあるのではないか、と与太話の一つとしては考えるわけであり、無論のこと一考する余地もないのだが、しかし英語というものは習得が延期され続けている言語なのだ、と日本に限れば言うことができるのかもしれない。