Outside

Something is better than nothing.

『インペリアル・ドリーム』(2014年)

  マリク・ヴィタルの『インペリアル・ドリーム』を観る。Netflixで視聴可能。

 ジョン・ボイエガ演じるバンビは刑務所から出所し、息子と一緒にまっとうな生活を送ろうとするものの、定職に就くには免許証がまず必要で、免許証を再発行するには(刑務所に入っている)母親に養育費を支払わなければならないわけで、もちろんそんなお金はない。そして養育費というのは母親が請求したわけではなく、行政側が代理に行っているものなので、もちろん本人は知らないというカフカ的な状況とでも言うべき袋小路に入り込んでしまったバンビは、刑務所の中で短編小説を本として出版していることから作家としてのアイデンティティを軸にして、暗殺者とも呼ぶギャングの叔父の影響力から抜け出そうと必死に藻掻く。また異母弟も大学に通っており、さまざまな金策の結果、叔父の影響力から抜け出しつつあるので、二人して貧困スパイラルから抜け出そうと思うものの、社会は厳しく、仕事はないし弟の寮には大家から住む許可が下りず、動かない車の中で子供と一緒に寝泊まりする日々を送る。友人もギャングの報復によって殺され、子供はそれを目の当たりにするし、児童相談所の監督官が訪れたりもする。持ち金もなくなっていき、叔父を結果的に頼ってしまうバンビは、同様に進学のためにまとまったお金が必要な弟と衆目の前で息子たるバンビのためにストリップと性行為を行おうとする母親を連れて逃げ出す。警察に拉致されたりして、息子とはぐれてしまうバンビだったがなんとか見つけることができて、まっとうな生活を送ろうと思い、小説も持ち込んだ出版社の受付の好意でエージェントに送ってくれて軌道に乗りそうなときに監督官がふたたび現れて、車で寝泊まりする子供の人権を慮って父親と離ればなれになってしまう。バンビは絶望するが、しかし楽な道に流されることなく、事実を受け止め冷静に対処する。ワシントンに引っ越した弟の車に乗って、バンビは息子と再会し、プールで楽しく遊ぶのだった。

 バンビを演じたジョン・ボイエガってどこかで観たことあるなあと思っていたら『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015年)でフィンを演じていた俳優だった。ジョン・ボイエガはアメリカにおけるアフリカ系の人々が陥ってしまったある種の貧困を見事に演じきっている。

 叔父がおそらくバンビが生まれたときからギャングで暗殺者で、同時に「お金を持っている」存在として近くにあって、母親は早々にアル中か薬物中毒になっており家庭はあらかじめ崩壊しきっているところに、叔父が血縁と経済とたぶん「男らしさ」を武器にしてバンビに囁いたのだろうと推察する。だからバンビの息子の母親(結婚しているか不明)は、あらかじめ家庭崩壊している環境が当然であるのだから、彼女もまた刑務所内にいるわけで、バンビがそういった環境から逃れることができたのはひとえに「書く」ことに囚われてしまったに他ならない。

 彼の「書く」ことへの執着は、周囲の当たり前な前提を完全に無視するような狂気であって、その狂気が当たり前を打ち砕いた。寝泊まりしている自動車の中でも、彼はちびちびとノートに小説を書き続け、あるいは息子に朗読を続ける。「書く」ということは、パソコンも免許証も養育費も要らないものであって、経済的にはかなりコストが低い。ノートと鉛筆(ペン)があればできることで、だからこそ彼はそこから出発したのだった。

 そして叔父との対決では、彼の「書く」ことが結果的に勝利してしまうわけで、メッセージ性としてはかなりストレートに文学的なのではないかとすら一瞬思うのだが、もちろん全編を通して伝えたいのは楽な方に流れるなといったことだろうとは思う。

漢字の配置

letterpress

 今もって自分の書くものの中で、漢字をどう配置していくのか、ということについてよく悩む。昔は「すごい」という言葉についてはひらがなで書いて、「凄い」と漢字では書かなかった。けれども昨年くらいから漢字で書くようになって、この導入はかなり慎重に行ったのを覚えている。

 金原ひとみの作品をよく読んでいたときに、彼女の作品では「こと」が「事」と書かれていてかなり硬質な印象を受けたのに影響され、後に小説などでは私も真似したのだけれども、いつしかそう書くのに躊躇いを持つようになって止めてしまった。

 漢字をひらがなに開くべきなのかどうか、という一面的な議論をしたいわけではなく、漢字の配置にはパーソナリティが如実に出ている。あるいは、作中における語り手のパーソナリティが、というべきか。それは文法的な配置もそうだし、一文の長さにも当てはまるのだが、要するに文章というものは名文で目指されるものとは異なり、勝手気ままに書かれるものは多分に意識的だ、ということを言いたいわけで、その意識というものは指先に宿っているのだろうか。

 最近パソコンのキーボードで入力をしているときに、わざわざIMEATOKなどで変換をしなければならないことに面倒臭さを覚えるのだけれども、英語話者というか、アルファベット使用圏において、そういう変換の面倒臭さというものは感じないものなのだろうか、ということを考える。そこで問題になるのはもっぱら語彙についてということになって、変換の、例えば「芸術」なのか「藝術」とすべきなのかといった表記的な問題はどうなっているのだろうかと想像してしまい、羨ましいと思う。

 もちろん漢字の楽しみもあるし、白川静の講義本を今読んでいるので、それはそれで面白いとは思うのだが、それでもやっぱりこれは面倒臭いと思う。もちろん文章を書くにあたって問題になるのは単に漢字の表層的な字義に限らず、漢字が作り出すヴィジュアル的なリズムであったり、あるいは漢字の音読みや訓読みによる語のテンポだったり、見た目のインパクトだったり、さまざまな要素があって、総合性はあるのだけれども、たかだか「私」と書くべきか「わたし」と書くべきか、そういったことにかかずらうのは煩雑であると言えば煩雑だ。

 志賀直哉が戦後すぐに日本の公用語をフランス語にすべきだとか言っていて、それを知った当時は「何言ってんだこいつ」と思ったものだが、今考えると割といいことを言っていたのではないかと思う。

文字講話 I (平凡社ライブラリー)

文字講話 I (平凡社ライブラリー)

 

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)

  アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を観る。

 マイケル・キートン演じるリーガン・トムソンは数十年前にアメコミ物の『バードマン』で人気を博したがその後はヒット作に恵まれず、ブロードウェイでレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を自身で脚色し、演出も担い、主演すら勤めることで再浮上を試みようとするものの、エドワード・ノートン演じるマイク・シャイナーが破滅型天才のためなのか舞台を引っかき回し、エマ・ストーン演じる娘のサムは元中毒症患者であり父親の愛に飢えており、破滅型天才のマイクにほのかな恋心を芽生えさせ、ナオミ・ワッツ演じるレズリー・トルーマンはマイクと体と部屋をシェアし、アンドレア・ライズボロー演じるローラ・オーバーンはリーガンとの間に子供ができたかもしれないと迫る。友人でありプロデューサーでもあるザック・ガリフィアナキス演じるジェイクは混乱するリーガンをとにかく浮上させようと、それなりの打算ありきでサポートするのだが、リーガンが『バードマン』の影響で幻覚、幻聴を感じるようになって、怪しげな超能力を発揮し、物体を動かしたり、あるいは自分自身のダークサイドっぽい謎の声が聞こえてきたり、プレビュー公演でマイクが本物の酒を飲み舞台で暴れ回ったり、レズリーとのベッドシーンで本気で犯そうとすることが評価されたりするので、しっちゃかめっちゃかな状況に辟易したのか控え室を破壊し回り、周囲が心配するのをよそに、自分自身が最後のシーンで登場するのに閉め出されたりしているところを写真や映像に撮られてSNSにアップされてエンゲージメントを稼ぐので、娘にそれを褒められて注目を浴びたことに喜びを感じたりもしたのだが、酒を飲んで路上で眠ってしまったあとに幻覚が頂点に達してニューヨークの街を飛んでいき、実際はタクシーに乗っただけなのだがそのまま神がかった演技を見せつけたらしいリーガンは、舞台の上で本物の銃をぶっ放して「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と批評には書かれることになる新たなリアリズムを獲得して、顔面がバードマンみたいになる。

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの作品はあまり観ておらず、『バベル』(2006年)はあまり集中できないまま、つかみどころを得ることができずに終わってしまった。『レヴェナント』(2015年)は面白かったけれども。

  個人的にはあまり面白い作品とは思えず、なぜこれが評価されるに至ったのかというところは理解不能なのだが、けれどもこの映画を観て思うのはマイケル・キートンにとっては『バードマン』が転けていたらそのキャリアを失いかねないほどの危険な映画だったのではないかと思う。

バットマン』(1989年)や『バットマン リターンズ』(1992年)の成功は俳優のお陰ではなく、ティム・バートンの卓越した手腕を元にして傑作にはなっているとは思うので、決して俳優の演技のお陰ではないのではないかという前提から、この映画、つまり『バードマン』が始まるので、その中でマイケル・キートン演じるリーガンがなぜか「俳優」というものを演じ始めたところにけ違和感があった。

 だから作中に登場する批評家の言う通りにこんな舞台はさっさと潰してしまう方が適切だったのではないかとも思うのだし、映像上、まるでヒッチコックの『ロープ』(1948年)みたいに――とあまり映画史に堪能ではない私は思うのだけれども――全編を通してワンショットで撮っていく手法で通すのはいいものの、後半から緊張感に欠けてきて、そしてなぜこの手法になったのか、というところがいまいち分からなかったし、ある意味で分かりたくなかった……のかもしれないのだが、つまるところ映像は最後まで観られたけれども、あまり楽しい映画の時間ではなかった、というところに至る。

ロープ (字幕版)

ロープ (字幕版)

 

  それはともかくとしてエマ・ストーンはとにかく可愛く、とにかく美しい存在でいてくれて、ナオミ・ワッツの老けっぷりがちょっと気にかかりはしたものの、とにかくエマ・ストーン万歳と言うしかこの映画に対するはなむけにはならないのではあるまいか、と思うのである。

 エマ・ストーン万歳!