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Something is better than nothing.

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)

  アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を観る。

 マイケル・キートン演じるリーガン・トムソンは数十年前にアメコミ物の『バードマン』で人気を博したがその後はヒット作に恵まれず、ブロードウェイでレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を自身で脚色し、演出も担い、主演すら勤めることで再浮上を試みようとするものの、エドワード・ノートン演じるマイク・シャイナーが破滅型天才のためなのか舞台を引っかき回し、エマ・ストーン演じる娘のサムは元中毒症患者であり父親の愛に飢えており、破滅型天才のマイクにほのかな恋心を芽生えさせ、ナオミ・ワッツ演じるレズリー・トルーマンはマイクと体と部屋をシェアし、アンドレア・ライズボロー演じるローラ・オーバーンはリーガンとの間に子供ができたかもしれないと迫る。友人でありプロデューサーでもあるザック・ガリフィアナキス演じるジェイクは混乱するリーガンをとにかく浮上させようと、それなりの打算ありきでサポートするのだが、リーガンが『バードマン』の影響で幻覚、幻聴を感じるようになって、怪しげな超能力を発揮し、物体を動かしたり、あるいは自分自身のダークサイドっぽい謎の声が聞こえてきたり、プレビュー公演でマイクが本物の酒を飲み舞台で暴れ回ったり、レズリーとのベッドシーンで本気で犯そうとすることが評価されたりするので、しっちゃかめっちゃかな状況に辟易したのか控え室を破壊し回り、周囲が心配するのをよそに、自分自身が最後のシーンで登場するのに閉め出されたりしているところを写真や映像に撮られてSNSにアップされてエンゲージメントを稼ぐので、娘にそれを褒められて注目を浴びたことに喜びを感じたりもしたのだが、酒を飲んで路上で眠ってしまったあとに幻覚が頂点に達してニューヨークの街を飛んでいき、実際はタクシーに乗っただけなのだがそのまま神がかった演技を見せつけたらしいリーガンは、舞台の上で本物の銃をぶっ放して「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と批評には書かれることになる新たなリアリズムを獲得して、顔面がバードマンみたいになる。

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの作品はあまり観ておらず、『バベル』(2006年)はあまり集中できないまま、つかみどころを得ることができずに終わってしまった。『レヴェナント』(2015年)は面白かったけれども。

  個人的にはあまり面白い作品とは思えず、なぜこれが評価されるに至ったのかというところは理解不能なのだが、けれどもこの映画を観て思うのはマイケル・キートンにとっては『バードマン』が転けていたらそのキャリアを失いかねないほどの危険な映画だったのではないかと思う。

バットマン』(1989年)や『バットマン リターンズ』(1992年)の成功は俳優のお陰ではなく、ティム・バートンの卓越した手腕を元にして傑作にはなっているとは思うので、決して俳優の演技のお陰ではないのではないかという前提から、この映画、つまり『バードマン』が始まるので、その中でマイケル・キートン演じるリーガンがなぜか「俳優」というものを演じ始めたところにけ違和感があった。

 だから作中に登場する批評家の言う通りにこんな舞台はさっさと潰してしまう方が適切だったのではないかとも思うのだし、映像上、まるでヒッチコックの『ロープ』(1948年)みたいに――とあまり映画史に堪能ではない私は思うのだけれども――全編を通してワンショットで撮っていく手法で通すのはいいものの、後半から緊張感に欠けてきて、そしてなぜこの手法になったのか、というところがいまいち分からなかったし、ある意味で分かりたくなかった……のかもしれないのだが、つまるところ映像は最後まで観られたけれども、あまり楽しい映画の時間ではなかった、というところに至る。

ロープ (字幕版)

ロープ (字幕版)

 

  それはともかくとしてエマ・ストーンはとにかく可愛く、とにかく美しい存在でいてくれて、ナオミ・ワッツの老けっぷりがちょっと気にかかりはしたものの、とにかくエマ・ストーン万歳と言うしかこの映画に対するはなむけにはならないのではあるまいか、と思うのである。

 エマ・ストーン万歳!

正しさの判定と表面化されたバイアス

 

Bubbles

 機械的な正しさの判定というものはまだまだ難しいのだろうが、正しさの判定をするための情報については、アルゴリズムを使うことによって人々の選択の幅を調整可能にすることが可能になっているようだ、というのがこれから書きたいことではあるのだが、私はちょっと前に書いた「分断された現実の位相」(下記参照)という記事の中で、やや否定的に「正しさの判定」というものを取り上げた。

 それはSFの領域に属しているし、テクノロジーの恩恵を全面的に受容できるほど人間は賢明なのだろうか、と書いたのだった。実際、人間が進歩しているように見えて、そのテクノロジーの恩恵はもっぱら野蛮さに寄与しているようにも感覚的には感じられる。デジタルな世界は格差を均すことにではなく、拡大することに寄与しているわけであるし、その恩恵であるグローバル化というものは、一つの場所に留まるということを不可能にした。

 先のトランプの大統領選から判明したのだけれども、「マケドニアの若者たち」がSNSのエンゲージメントを稼ぐためにフェイクニュースサイトを立ち上げて、広告収入等を得るようになった。「クリエイティブ」な方法として発明されたのである。そのフェイクニュースを読んだ人々は記事の真実性について顧みずに、フェイクニュースに基づいて政治的な言動を行った。そして実際の選挙結果や襲撃の場に選定されたりと、現実にも影響するようになった。これらの政治的な状況が「ポスト・トゥルース」(ポスト真実)と呼ばれるようになって久しい。

 オバマが大統領だった時期にバーサーズが話題になったこともあるが、いくら公式にオバマの出生地がアメリカ国内だと言われていてもフォックスニュースなどは事実に基づかない情報を伝え続け、共和党支持者と民主党支持者との間で「オルタナティブ・ファクト」と呼ぶしかない、別種の事実を信奉する人々がすでにいた。その素地がトランプという極端すぎる人物の出現によって、一気に退っ引きならない状況にまで突っ切ってしまった、というのが現在のアメリカの状況なのだろうが、とにかくポスト真実の状況というものは、それが顕在化してしまった今となっては、人々に対して(政治的に)有効な手段として証明されてしまい、今後も引き続き用いられていく手法だろうと思う。 

 ただ人々の思想信条がポスト真実に基づこうとも、オルタナティブ・ファクトを見ようとも、WIRED.jpが年頭に述べたように、是非はさておいてエンゲージメントは稼がなければならない。

wired.jp

「同じ穴の狢」だと気楽に述べてしまうわけにもいかないのだが、経済が広告を要請し、広告がエンゲージメントを要請し、エンゲージメントがアテンション・エコノミーという注目さえ集めればいい経済倫理を要請してしまうわけである。「やっちまえ」という経済活動によって、その倫理性については問われることなく金銭を稼ぐことが可能になっている。その技術的な規制=機械的な正しさの判定は、そういったところでも無理なのではないかと推測していた。

 ニュースに対して、あるいはニュースサイト自身が、ポスト真実の状況下において、さまざまな方法を模索し、「タコツボ化」を回避しようとしている。Googleなどはニュースの真実性を検証するファクトチェック機能を検討していたし、パックンはメディアの格付けをするべきだと語っていたことが興味深いが(「『田舎の力をバカにしてたよね』 なぜトランプが当選したのか、パックンが語る“日本人の知らないアメリカ”」)、「ネットのタコツボ化"フィルターバブル"を破る方法とは?」という記事によると、前述したものに限らない、その他の方法も検討されていた。 

www.huffingtonpost.jp

  私個人としては、比較的すぐに技術によってこのポスト真実をどうにかしようとする発想と実行が出てくるところがアメリカの凄さだと思っていて、ここにあるのは(プログラミングするのは人間だとしても)非人間的な発想であろうと思う。

 フィルターバブルを打ち破るために、彼らの採った戦略というのは人間が記事を読む際に真実性をその知識や経験に基づいて判断するのではなく、あらかじめバイアスを表面化しようとするというものだ。

 そこでは読む存在としての読者の人生や知識や経験といった人間の側に属しているものは一切信用されておらず、たぶんデータとしても、先の大統領戦といった経験としても、人間は信頼できないものなのだという認識を持っているのだと思う。だからエンゲージメントを稼ぎつつ、そのオルタナティブ・ファクトを、セパレート・リアリティーを信じる人々の熱情を切り離して、単なるエンゲージメントに還元しようという企図がある。

 私はこの発想を凄いと思うのだが、いったいどれだけ効果が出てくるのかというところについては、あまり楽観はできないのかもしれない。

 

【関連記事】

 「流言蜚語」「デマゴギー」「ポスト・トゥルース」を整理したメモ。

joek.hateblo.jp

 文中で言及した過去の記事。

joek.hateblo.jp

グミの進化

gumi

 ハリボーのグミというのは妙な魔力があるもので、見かけるとついつい欲しくなってしまい、けれども噛んでいるうちにゴムっぽい臭い、お世辞にもいい匂いとは言いがたいスメルを発する瞬間もあって、あの弾力性のあるグミを噛み続けている自分はやがてゴム人間になってしまうのではないか、と子供の頃に考えていたことがある。ヨーロッパに住んでいたときに街中でお菓子取り放題だぜ!みたいな駄菓子屋があって、そこで日本のお菓子からしてみれば繊細さをあまりに欠いたお菓子たちが毒々しく輝いていたのだけれども、その中でもハリボーのグミというのは例外的に「健康的」だった。

 そういえばベルギーにいた頃、何やら赤々しい着色料が添加されたスポーツドリンクなのか分からない代物をベルギーの子供と一緒にサッカーをやったあとにクラブからもらったりするのだけれども、それは彼らにとって当然の着色なのかもしれないのだが、幼心に「そりゃねえよ!」としか思えない、人間の色彩感覚からすれば危険信号を発している色合いの飲み物をどうしても一気呵成に飲むことができなくて、「何このジャパニーズ、うぜーぞ」みたいな目でベルギー人に見られている私は、恐る恐るその液体を口につけると、「うわー出たー」と初めから予想していたように薬っぽい味がしたものだった。

 とはいえ、グミに罪はない。

 日本のグミ事情というものは業界人でもないからあまり詳しくは知らないのだけれども、昔は柔らかいグミが多くて、あってもUHA味覚糖シゲキックスくらいがあったのだけれども、あれはグミというよりはシゲキックスというジャンルとしか思えなくて、だからハリボーというのはかなり特権的な位置を占めていたような印象を抱いているのだが、最近はハードグミが流行しているのか必ずしもハリボーに信仰を捧げる必要もないくらいにグミ事情は充実の一途を辿っている。

 けれども、最近ドラッグストアに立ち寄ったときにまたしてもUHA味覚糖なのだけれども、「グミサプリ」なるものを見つけてしまい、「いったいこれは何ぞや」と思っていると、名前の通りに栄養を補給するためのグミということもあってせっかくなので買ってみた。

 自分用にビタミンC、妻用に鉄&葉酸を購入してみたのだが、これがまた美味くて硬さもちょうどいい。鉄&葉酸なんて延々と口の中に放り込みたいくらいである。先ほどグミに罪はないと述べたのだが、私は親をグミに殺されている身であるためにグミを敵だと思ってついついたくさん食べてしまうのだが(チックタックも同様なのだけれども)、このグミサプリもまた同様に敵としか思えなくて、ついつい一日二個と決まっているのに、その倍を食べてしまいたくなる。

 思えば遠いところにまで来たものだ、と思わざるをえない。

UHA味覚糖 グミサプリ 鉄&葉酸 30日分 60粒

UHA味覚糖 グミサプリ 鉄&葉酸 30日分 60粒

 

 

【関連記事】

  チックタックなどについて。

joek.hateblo.jp