Outside

Something is better than nothing.

親指の死

 日々、再生と破壊とを繰り返す身体ではあるけれど、子供の時分には成長という名の下に急速にその輪郭を大きくしていき、総体性とでもいうべき統一を身体は目指していくこととなる。だが、大人となった今では、身体はいずれ朽ち果てる死すべきものであり、その運命から誰しも逃れられないことになるのだが、子供の時分に作り上げた蓄積が今の私を支えていることになる。私というものの不思議はそういったところにあるのだと最近では思うわけで、私がどう思ったり行動したところで、私の意識されざる総体性は止むことなく正常に運行し続けていることになる。そのゆえ私はアルコールを飲んで我を忘れたところで、私としての総体性は我を忘れることなく翌朝目覚めると二日酔いの頭痛とともにきちんと我に返ることになるのだ。
 身体とはかくも偉大な一個の巨大で極小のシステムということになるのだが、しかしその末端においては復旧が見込めないこともある。巨大な都市を想像すれば分かるように、監督不行届きのような瑕疵が不可避的に存在してしまうということだ。
 数年前に「親指の死、或いは」という小説を書いたことがあり、そのタイトルが気に入っているがゆえにふたたびタイトルの一部に使うことにしたのだが……つまりここで述べたいことは、私の親指は死んだ、ということなのだった。そう、死んでしまったのだった。
 死の定義はいくつもあるし、バシュラールが火のイメージについて述べていたことが何となく私の頭の中に燻り続けているように(火はその中に反-火のイメージを持っている、といったような)、死にもまた反-死のイメージがあるということにも繋がるわけで(もちろん火と死はまったく違う代物ではあるが、焼死という言葉や事態があるように隣接してはいる、どちらも生命に関わりのあるものでもある)、一概に死を述べるわけにもいかず、先程挙げた火との決定的な相違といえば孔子も述べたように我々は「未だ生を知らず焉んぞ死を知らん」ということでもあり、この死は経験に基づくというよりかは観念的な物言いになるということになる。
 腕が死んだ、足が死んだといったことは極度の疲労のあまりに動かなくなったということの比喩的な言い方ではあるのだけれども、かといって小指が死んだ、親指が死んだとはあまり言わないような気もするわけで、死という捉えがたい極大のイメージを同じく極大なシステムである身体の極小の部分を担う指に当てはめるということは無理な話だったのかもしれない。なぜなら彼らは腕や足の一部分であり、腕や足とは違って全体とはなりがたいものだからである。
 しかしこのたびめでたく親指に死が下賜されることになった。私の親指が死んだのだった。
 実際の出来事の割に語られる言葉は常に過剰であり、事態はもっと簡潔で分かりやすい代物であるが、おそらくはそうであるがゆえに事態はより一層複雑な様相を示さなければならなくなるのだろう。乾燥して指紋認証にも反応しなくなった親指を、死というイメージで彩ろうとする私のどうでもいい感性もおそらくはその一つであろうし、その死と呼ばれる事態に内包されている事実は指紋認証が私を無視することに加えて、日常的に扱う書類や紙幣が私の指に刻まれた襞をまったく顧みないことであり、メクールなどを使用することで手が荒れて余計に親指が死んでいくという悪循環である。後輩曰く、「おじいちゃんみたい」な指になってしまった。
 そしてその軽薄でありながらも適切な評言は、私の親指に「おじいちゃん」という老いのイメージを被せることで死を想起させることに成功し、私は愉快な思いを抱くのであった。たしかに私は「未だ生を知らず」な二十代の後半の男であり、「焉んぞ死を知らん」という半永久的に続く無知に晒され続けることにはなるのだろうが、しかし親指は私の経験や知識よりも先にすでに死のイメージに片足を突っ込んでいることになる。指にもかかわらず!
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