Outside

Something is better than nothing.

永遠の若い彼らについて

School holiday #2

 永遠に若いということはありえないのだけれども、きちんと年齢を感じる機会が少ないと、どうも自分が年を取ったという感興が湧かないことがままある。とはいえ、折に触れて年齢の意識させられる瞬間は多々ある。体力の低下や思考の鈍り、逆に経済的な余裕や経験の蓄積、あるいはアンケートの年齢記入欄……。

 若さに触れるたびに、ハッとすることが多い。あまり人付き合いが上手でない私にも、若さに触れる瞬間というのはたまにあり、年長者を相手にするときとはまったく違う感興を湧かされる。それは生命の煌めきのようなものなのかもしれない、と私は思っている。同時に、その煌めきの曇りに対する苛立ちのようなものも感じている。

 尊敬と軽蔑の両方が混じり合った奇妙な関係性が、そこにはあるのだろう。それを奇妙と断ずることに、多少躊躇わないでもないのだが、けれどもそれは自分自身がいつか来た道でもあるはずなのだ。そして、相手が若かろうが何だろうが、結局のところ対するのは人間であって、実のところ“若さ”とは関わりのないものであるはずなのだ。

 だから奇妙な嫉妬心をここで私は抱えていることになる。自分よりもうまくやっている“永遠に若い彼ら”に対して。自分よりも下であって欲しい、上に行って欲しくないという足を引っ張りたい願望が一方ではあり、他方でどうしてここに留まっているんだろう、もっと先に行かないのか、という苛立ちもある。

 しかしながら、私たちがいる場所は、それぞれの成長と停滞により一進一退を繰り返し、ほとんど平行線を辿っている状態なのかもしれず、この不安と苛立ちには何ら意味はないのかもしれない。そして実はその平行線を描き続けている状態というのは、単なる郷愁しか存在しておらず、ほとんどまともな意味は有していないのかもしれない、と思っている。

 私はかつて“真っ当さ”のために、何人かの人間関係をすっぱり切ったことがあった。それは差別的言動を繰り返す人間とこれ以上付き合っても致し方ないのではないか、というのが理由の一つではあった。人間付き合いは基本的に疲れるものと認識しているが、最終的にどこかしらに繋がりがないとやっていけないのも個人的なものとして事実であり、そのアンビバレントさに悩む。

“永遠に若い彼ら”との相互理解はおそらく不可能だ。ちょっと前に気づいたが、私は彼らの言うことがさっぱり分からない。たぶん分かっているような気がしているだけで、その実、彼らの信奉する価値観も信念も、何一つ分からないまま、共有できる可能性を探りつつ終わるのだ。

 

【関連記事】

 結局のところ、“若さ”に対する意識というのは大体常にあるということなのかもしれない。

joek.hateblo.jp

 

『ナイトクローラー』(2014年)

 ダン・ギルロイの『ナイトクローラー』を観る。

 ジェイク・ジレンホール演じるルイス・ブルーム、通称ルーは工事現場でフェンスを盗んだり、それを咎めてきた警備員の腕時計を盗んだりして小金を稼いでいたが、ある日、事故現場に遭遇した際にその様子を映すカメラマンに出会ってから、そういう職業に興味を抱くものの、彼らのクルーに加わることはできず、仕方なく自転車を盗んだ金を使って撮影器具等を購入し、映像を売り始める。その過程でテレビ局のレネ・ルッソ演じるニーナ・ロミナというディレクターと出会い、また金に困るリズ・アーメッド演じるリックを相棒とする。ニーナによると、富裕層に対するマイノリティ側の暴力という名の物語を視聴者は求めているらしく、その物語に基づいた映像をルーは提供していくこととなる。やがてルーはある邸宅で起こった事件を警察の侵入する前に撮影し、犯人たちの映像を秘匿、その後独自に犯人を探し出し、人が多い料理店にいるときに通報して銃撃戦となった様子を撮影するなど状況がエスカレートしていくものの、最終的にニーナには感極まって感謝もされるのだった。

 ジェイク・ジレンホールが極めてシャープに悪役を演じているものだから、観ているこちらはただその悪役っぷりを堪能すればいいだけであり、そしてこれはある種『ゾディアック』でマンガを描いていたロバート・グレイスミスとさほど変わりはないのではないか、という気さえする。もちろん『ゾディアック』については、たとえば世界精神に触れたことをきっかけとして、という評も成り立つのだろうが、本作においては端的に「適職」を見つけたにすぎない。

 やや強引な持っていき方をするとすれば、この「適職」の不在と自己啓発的な思考様式に基づく帰結こそが、資本主義というよりはネオリベラリズム的な生活様式を表す世界精神なのだと言えなくもないのかも知れないのだが、あまり面白いとは言えない。

 どちらかといえば『ブルーベルベット』のように、夜の世界に脚を突っ込んでしまった人というべきなのかもしれず、しかし『ブルーベルベット』のように天使は現れなかったし、その可能性があったかもしれないニーナこそがそもそも、この職業が求められる構造に加担しているのだから、世界はあらかじめ崩壊しているのだ、という方がむしろ正しいのかもしれない。

 とはいえ、私はこの作品がかなり気にいったことは確かで、私たちがともすれば見落としがちであるのかもしれないのだが、私たちの近代以降に行ってきた多くの「仕事」は、要するにここでジェイク・ジレンホールがほとんど瞬きせずに相棒を間接的に殺してまで掴もうとしたものである、ということなのだろう。

『グリーン・インフェルノ』(2013年)

 イーライ・ロスの『グリーン・インフェルノ』を観る。

 ロレンツァ・イッツォ演じるジャスティンは、例によって自堕落で偽善的な大学生活を送っていたのだが、ある朝に行われていたハンガーストライキを見たのをきっかけに積極行動主義に興味を持つようになり、そのままなし崩し的に油田を開拓するためにジャングルの原住民を排除しようとするグループの仲間に入るものの、彼女の父親国連に勤めていたため、それを元に人質的な使われ方をしてしまって怒り狂っていたのだが、帰り道に飛行機が墜落してしまい、助けようとしていたはずの原住民たちが食人族だったため、仲間が続々とやられていってしまう。しかし、例によって生き残るのだった。

 ほとんど創意のない映像といえばそうで、もちろんジャングルの緑の中に現れる異様な(と言いつつさほど異様でもない)赤い部族と血の色がマッチングしていき、その中で処女性を崇められるジャスティンは白く塗りたくられていくといった具合に、政治的には相当正しくない映画ではあるものの、政治的に正しくない割に極悪非道かと言えば、檻の中で仲間が死んで行く中、自慰をしているくらいがせいぜいクレイジーなもので、つまりどういうことかと言えば手ぬるいのである。

 もちろん残酷さ、ゴア描写の面白みはあるのだが、残念ながらゾンビにお株を奪われた嫌いがある。心理的な残酷さというのは、すでにサスペンスが代替しているような気もするし、どうしようもないポストコロニアリズムをふんだんに抱えた映画というのもまた腐るほどあるのだし、じゃあここで描きたかった人間の偽善やどうしようもなさって一体、と思わなくもない。せいぜい大学生が抱く社会の偽善、程度なのか。

 雑に言えば観客を舐めているのである。