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Something is better than nothing.

『ラ・ラ・ランド』(2016年)

ラ・ラ・ランド-オリジナル・サウンドトラック

ラ・ラ・ランド-オリジナル・サウンドトラック

  • アーティスト: サントラ,ジャスティン・ハーウィッツ feat.エマ・ストーン,ジャスティン・ポール,ジャスティン・ハーウィッツ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2017/02/17
  • メディア: CD
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  デミアン・チャゼルの『ラ・ラ・ランド』を観る。

 ライアン・ゴズリング演じるジャズピアニストのセバスチャン・ワイルダー(セブ)は、ジャズを復活させようと固執しているがゆえにあまり成功はしておらず、エマ・ストーン演じるミア・ドーランは女優を目指してハリウッドでオーディションを受ける日々を送っている。そんな二人がパーティー会場などで何度か会っているうちに恋心を抱くようになるので、ミアはそのとき付き合っていた彼氏を振ってセブと付き合うことになるものの、二人の生活のためにセブはそれまでのジャズへの熱情を捨て、現代風のジャズバンドに加入し、全国ツアーを行うようになる。ミアはオーディションに参加するばかりではなく、故郷で行っていたように自分で脚本を書き、一人芝居を準備していく。すれ違いが続く二人だったが、ある夜に食事をしているときに、ミアが彼にいつまでジャズバンドに加入しているのか、念願だった自分の店は持たないかと言ったことがきっかけで口論となり、セブは自らの心情を捨ててバンドに加入していたのは、かつてミアが母親との会話の中で安定を望んでいたからだし、そもそもミアは自分を見下して優越感を得るために付き合ったのではといったところで、いったん関係は破綻してしまう。ミアの一人芝居は惨憺たるもので、ほとんど客も入らず大根だと罵られ、失意のミアは地元に戻ってしまう。しかしセブの元にオーディションの結果がよかったという旨の通知が来たことから、セブはミアの地元に行ってミアにオーディションに出るように言い、彼女は役を得ることができる。しかしパリでの撮影が前提とされていることから、二人は発展的に関係を解消し、互いに自分の本当にやりたかったことに専念することになる。そして五年後、ミアは他の男性と結婚し、子供もいるのだが、夫と二人でジャズバーに出かけたところ、その店の名前はかつてセブとともに考えた店名で、ピアニストとしてセブが登場する。そしてありえたかもしれない「もしも」の姿を演奏の間にミアは感じる。そして二人はそれぞれの道を歩むのだった。

 『セッション』(2014年)を観たときにも書いたのだけれども、この監督はもしかするとかなり個人的な経験を映画にしているのではないか、と感じられる。実際、映画を観ていると、観る者の実人生に強烈に共鳴していくように作られている印象があり、映画として観ようとしているこちらからすれば、その共鳴がざわつきとして、ひりひりと画面に生じていく。映画を観終えたあと二日酔い的に残るのは映画視聴に伴う快感というよりかは、実人生の中で過ぎ去っていったさまざまな残り香ではなかろうか。

 そういった意味で言えば、この映画について何かを語るということは、批評としては難しいということをまず初めに断っておきたい。この映画にしろ『セッション』にしろ、「映画としての出来」を云々する前に、実人生の中でのあれこれが引っかかってしまう。そのとき、鑑賞者にとってもはや『セッション』や『ラ・ラ・ランド』は「映画」ではなくなってしまうのだ。作品に接するにあたって、これはフェアではないと思う。

 ただ、そうは言っても、かろうじて残った客観性がこの映画が素晴らしいものだと告げているし、その残された理性がどことなくぶつ切りになって挿入される、音楽なのに非音楽と見なされているような音に注意を向けさせ、まためまいを催させられるように、何度か挿入される回転する絵面にも考えを向かわせる。とはいえ、そういった物事よりもまず、何を差し置いても語っておかねばならないことがある。

 エマ・ストーン万歳!

 私は勝手にエマ・ストーンを全世界的に応援する会の日本支部会員を名乗っているのだけれども、それくらいにエマ・ストーンが大好きであり、出演作品をすべて観ているわけではないのだけれども、とにかく彼女が好きである。

 画面の中に動く彼女の姿は実に美しく、まず最初に観たのは『アメイジングスパイダーマン』(2012年)のヒロインとして登場していたところだったのだけれども、まるでズーイー・デシャネルに出会ったときのような衝撃だった。

 そしてエマ・ストーンはこの作品でアカデミー賞の主演女優賞を受賞しているのだが、この映画と彼女との出会いはキャリアを考える上でも重要だろう。とにかく画面の中の彼女は美しく、可愛く、素敵で目が離せなくなってしまった。正直に言えば私はこの映画を観ながら、ライアン・ゴズリングに嫉妬してしまうほどだった。

 その美しさをもたらしたエマ・ストーンの衣装については映画との関連において考える必要はあるだろうし、彼女のテンション如何によって着ている服の鮮やかさがまるで違うわけなのだから(背景の色彩についても)、映画との関連は単なる衣装を超えて深い。

 さて、作品に戻るのだが、ライアン・ゴズリングのほとんど一貫して何か悟っている風な具合もけっこう気になるわけであるのだけれども、そういえば観ているときに思いだしたのはデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001年)だった。

マルホランド・ドライブ [DVD]

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マルホランド・ドライブ』はビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』(1950年)の影響にあると監督自身が公言しているのだけれども、この三作品ともにハリウッドを巡る話になっていることはまず考えなければならないだろう。

『ラ・ラ・ランド』は夢を語る物語ではあるのだけれども、冒頭から挿入される「シネマスコープ」とロゴが出てくるところからすると、映画についての映画でもある。私はミュージカル映画についてあまり詳しくないので、その部分については他の批評や感想で補完して欲しいのだが。

マルホランド・ドライブ』はナオミ・ワッツ演じるベティというキャラクターが、やはり女優志望でハリウッドに来ている。そこでローラ・ハリング演じるリタと出会い、夢の世界とも言える奇妙な場所に行ってしまうのだけれども、だんだんと映画は分裂を来していき、ベティすらも分裂する。リタもまたカミーラ・ローズという女優に分裂しており、ジャスティン・セロー演じる映画監督アダム・ケシャーと付き合っているという演出もあったのだけれども、これが『ラ・ラ・ランド』においては(たしか)プロデューサーと結婚しているような描写に転じているわけで、どことなくハリウッドにおいて「才能」の発揮方法を想起させられる。最終的に夢を語り続けることはできず、ライアン・ゴズリングエマ・ストーンは現実には結ばれなくて、夢の中で結ばれているのだけれども、この現実の妥協とも言える部分がカミーラ・ローズとアダム・ケシャーの関係性に結びついているようにも感じられる(ちょっと牽強付会か)。ララランド(夢)の世界での出来事は、もちろん劇中の彼らにとっての現実ではあるのだけれども、リンチにおいてララランドは非常に不安定な世界として描かれており、ベティとリタは不思議な出会いをし、冒険と呼べるような数々の出来事を経ていくのだが、最終的には収束していく。これが『マルホランド・ドライブ』におけるララランドである。『ラ・ラ・ランド』は色調と衣装、ストレートに歌、あるいは彼らの現在でその収束を物語った。

 

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joek.hateblo.jp

『iBOY』(2017年)

 アダム・ランドールの『iBOY』を観る。Netflixで視聴可能。

 ビル・ミルナー演じるトムはギークな少年で、イギリスの団地に住んでいた。そこには高校の友人も多く住み着いている場所で、トムはメイジー・ウィリアムズ演じるルーシーという女の子にほのかな恋心を感じているのだが、ある日彼女の家にギャングが襲撃されてしまう。その日、トムは彼女に勉強を教えに行く予定だったので、襲撃途中の彼女の家を訪れ、ギャングたちの攻撃を受けてしまうのだが、携帯電話を持っていた所為で、耳の下辺りを銃撃されたときに、その携帯電話が埋まってしまう。そのことがきっかけでトムは、超能力を持つようになる。電子機器を自由自在に操ることができる能力だった。トムはその能力を駆使して、ルーシーを襲撃した犯人を探すことになるのだが、なんと犯人はクラスメイトの悪ぶっている連中で、調べていけば背後に本物のギャングが存在していることも分かる。トムは彼らを追い詰めていき、しかし反撃にも遭いながら、ルーシーのために正義を実践するのだった。

 基本的には『クロニクル』(2012年)の路線だろうと思う。もっと背後には(あまり詳しくはないけれども)アメコミ世界の倫理観があるのだろうとも思う。舞台がイギリスに据えられて、おそらくイギリス的なミドルクラス以下くらいの若者の暴力が、そういったテクノロジーによる超能力と結びつき、男女のほのかな恋愛といった若者の青春っぽさをまぶしたところでこの映画が完成する。

クロニクル (字幕版)

クロニクル (字幕版)

 

 力を持つ者が、正義のためにその力を振るうときの倫理観というテーマはかなり見慣れたもので、そういった意味では新鮮味はないのだけれども、もちろんそれはタイトルにある「BOY」という言葉が明瞭に物語っていることでもあるのだし、この映画の若者の状況は団地に住む過程で必然的に出会う「暴力」(ギャング)を背景にしているわけで、もちろんそこには貧困という問題があるのだろうとも思うのだから、『クロニクル』を観た方がまだ時間的にはいいのではないか、と思う。

 ヒロインを演じたメイジー・ウィリアムズは奇妙な魅力を画面に映し出すことに成功していて、その意味では彼女のお陰で映画が多少はましなものになったとは思うものの、コンセプト自体が二番煎じもいいところなので、やはり新鮮味はない。「iBOY」というタイトル的にも、この「i」って何よ、結局と思ってしまうような、「クロニクル」ほど大仰ではないけれども、最初から小さくまとまっていますという居直りも意味しているようで、そういう意味ではコンパクトに手堅くまとめた作品だった。

『ズーランダー No.2』(2016年)

  ベン・スティラーの『ズーランダー NO.2』を観る。

 冒頭イタリアでジャスティン・ビーバーがキメ顔を残して暗殺されるので、 ペネロペ・クルス演じるインターポールの捜査官ヴァレンティーナは同様のキメ顔で死んだポップスターが多くいるため、キメ顔に何か意味があるのではないかと、そのキメ顔こと「ブルー・スティール」を作り出したベン・スティラー演じるデレク・ズーランダーを探す。しかしながら、前作で字が読めない子供たちのための養護施設を造り、わずか二日後に崩落してクリスティン・テイラー演じる妻マチルダを失ってしまい、生き残った子供とともに生活するものの、パスタがまともに作れないということで児童養護施設に子供を奪われて失意のズーランダーは隠遁生活を送っていた。同様にオーウェン・ウィルソン演じるハンセルも、前述の事故の影響で美しい顔にほんの少しの傷を負い、常にマスクを被るようになって砂漠に引きこもり、多種多様な人々(と動物)との性的に放埒な生活を送る。モデルから引退した二人に、現在のファッション界の大物クリステン・ウィグ演じるアレクザーニャがオファーを出し、ズーランダーは子供と再会するため、ハンセルは性的放逸の結果、大量の子供が生まれ「父親」になるように迫られ、元々ハンセル自体が父親との確執があったために覚悟が決まらなかったことから、二人はローマに赴く。そこでズーランダー・ジュニアとも再会したり、産廃施設で行われたファンションショーに出演してベネディクト・カンバーバッチ演じるオールというモデルに挑発されたりしながら、そんなこんなで陰謀としてはアダムとイブの他にスティーブというものがいたということで、その「スティーブ」がズーランダーの息子で、その彼、「選ばれし者」を生贄に捧げることで永遠の若さを得ることができるらしいのだった。黒幕はウィル・フェレル演じるムガトゥということで前作の悪役が今作でも悪役になっている。

 基本的におバカな作品を目指して作られているので、真剣に論評することもないのかもしれないのだが、個人的にはペネロペ・クルスがあまり噛み合っていなかったことと、ベン・スティラーの妻でもあるマチルダ役のクリスティン・テイラーの美しさが堪能できなかったことが残念でならず、ジャスティン・ビーバーの死に様は面白かったのだが、それ以降は予告編以上の面白さはあまりなかった。

 とはいえ、オーウェン・ウィルソンの放逸っぷりは相変わらず笑えたし、ズーランダーのバカっぷりも楽しかったのだが、ちょっとピントがずれてしまったのであった。

【2017年2月27日、タイトルの表記を訂正】