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『過去改変』公開

 1.長編小説

 下記リンク先より購入することができます。

 値段は500円。ただし、10/20(金)までは無料で購入できます。

過去改変

過去改変

 

 2.小説を書くこと

 10年くらい小説を書き続けてきて、初めてまともに長編が書けたかなあと思えるのがこの作品であった。書くことは楽しいのだが、100枚を超えた辺りからだんだんと書けなくなってきて、最終的に多くても150枚くらいで推移する。これはどうしてかと言うと、原因は複雑なのだが、私の物語の有機的な結合の限界がその辺りになるからなのだ。

 だから、第一部となるパートを書いた後、ひょっとするとこれはもう終わりなのかな、と私は一瞬考えた。続きようがなかったからだ。けれども、なぜだかその先が続いてしまった。だから第二部の震災、第三部の魔女狩りのパートが書き得た。そしてこの第一部から第三部までの間、書き終えてからの空白期間がだいたい短くて二週間くらい横たわっている。

 けれども、私にしては珍しく明示的に参考文献を取り入れて小説を書いたこともあって、書いている最中にどんどん「次へ!」「次へ!」という息苦しいような、しかしそれが快感であるような、小説を書く人間としての幸福を味わうことができた。

 はっきり言って書くことはほとんど苦しみのようなもので、そしてその苦しみこそが楽しいのだという逆説さえあるのだが、けれども300枚に到達したときは、にわかにその枚数に至ったことが信じられなかった。

 けれども、その地点に到達したとき、私はまたその地点にたどり着けるし、さらにその先にも行けるだろうという確信があった。

3.アルテミスの矢

 この作品を書き終えてから、エピグラフに置いたパウル・ツェランの「アルテミスの矢」にたまたま偶然出会った。図書館で文献を探しているときに、疲れたので休憩しようと思って、書架をぼんやりと眺めているときに、この詩が収められている『パウル・ツェラン詩集』(飯吉光夫訳、「双書・20世紀の詩人 5」、小沢書店、1993年)が目に飛び込んできた。そして導かれるようにしてページをめくっていくと、この「アルテミスの矢」が飛び込んできたのである!

時は青銅となって最後の時代に入る。
あなたひとりだけが銀色のままここに。
そして、たそがれの中で、沈みゆく深紅の蛾を悼んでいる。
雲を奪り合って、深紅の蛾と言い争っている。

あなたの心が没落をまるで知らなかったというのではない、
闇があなたの目にまるで命じたことがなかったというのではない……
とはいえ、あなたの手のひらはまだ月のなごりをたたえている。
そして、水中では、月の光が一筋まだ身もがきしつつあらがっている。

空の青を映す砂利の上方で、
水の精ニンフたちと軽やかに輪踊りする者が、
森の中にまだアルテミスの矢がまぎれていて、
最後には自分をとらえると、考えていけないはずがどうしてあろう?

(前掲書、11-12頁)

 冒頭から時代が逆行していく。私もまさに過去を遡るような小説を書いた直後であったため、これは何かの啓示のように思えた。

 どうしても誘惑に抗いきれなくて、結局私はこの詩の冒頭をエピグラフに置くことにした。実に美しい詩である。

4.長編の言葉

 長い小説を書くにあたっては短編の言葉ではなく長編の言葉で書かなければならないといったような旨を以前にエッセイの中で書いた覚えがあるのだが、まさしくそうで、私も今回はさまざまな形で長編の言葉を導入した。

 まず重要なのは横光利一の「純粋小説論」における四人称の概念である。詳しくは『Thought』の「横光利一『紋章』について」をご一読いただきたいのだが、その中で私は横光の使用した「四人称」と外山滋比古の「第四人称」とを結びつけて、新しく生まれ変わらせた。

 言うまでもなく横光利一は長編作家であるのだから、彼の「四人称」をここで私が使わないはずがない。

 また、私は佐々木敦の『あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生』という本を読んでいた。ここでの議論は面白かったのだが今一つ物足りなく感じてもいて、実作の中でここで探求された問題意識を違う形で結実させたいという思いがあった。批評的な形での反駁が難しかった、ということもある。

 また、テーマとしてトランプ政権誕生の前後におけるポスト・トゥルースの政治状況を取り入れた。これが第一部の中核になる。これについては現在進行形ではあるのだが、個人的な興味の中で「流言蜚語」との関連を考えていた。

 清水幾太郎の『流言蜚語 (ちくま学芸文庫)』を読んでいく中で、清水の問題意識の発端となった関東大震災について調べる必要が出てきた。そして、ここで出てきた朝鮮人や中国人(また、日本人を含む)といった虐殺事件については、現在起こっている差別の問題にも繋がると思い、第二部の主要なテーマとした。第二部は仁木ふみ子が積極的に取り上げている王希天事件をモチーフにしている箇所がある。そして恐ろしいことに、都知事となった小池百合子が、先の虐殺についての定例的に行っていたコメントを取りやめるといったニュースが出たわけであり、奇妙な一致を見る思いだった。

 最後に、魔女狩りを扱った第三部になる。「魔女狩り」については私は五年ほど前から、今回取り入れたテーマ性とは別の形で扱うつもりだった。戦国時代の瀬戸内海の小島に、隠れキリシタンとして住む村人たちと、キリシタン狩りをする勢力、そして迫害の中で隠れキリシタンの人々が結束をより強くするのではなく、より排除の傾向を強めていく、といった状況を描いてみたかった。

 実際、最初はそのような形で第三部を書こうかとも考えたが、うまく作品全体にはまらなかった。かなり凄惨な魔女狩りの中で、文献を読み進めていく中で魔女狩りにおける「真実」の概念が、現代の我々が考えているものとは違う形で運用されていることが判明した。

 この状況については、ポスト・トゥルース、流言蜚語を経て、過去を遡っていく中で、最終章に相応しい「真実」の形なのではないか、と思い、採用することとなった。

 以上のような概要の中で、最終的に「僕」という一人称と「君」という二人称を軸にして話を構築したのは他でもない、前述の四人称、パラフィクションがある上に、舞城王太郎の『淵の王』もあったからである。

 長々と書いたのだが、私はこれを書いている間、とてつもなく幸せだった――他人がどのように読むのかについてはまた別の問題なのだけれども。そして、また別の作品に取りかかるためにも、このたび公開することとした。

永遠の若い彼らについて

School holiday #2

 永遠に若いということはありえないのだけれども、きちんと年齢を感じる機会が少ないと、どうも自分が年を取ったという感興が湧かないことがままある。とはいえ、折に触れて年齢の意識させられる瞬間は多々ある。体力の低下や思考の鈍り、逆に経済的な余裕や経験の蓄積、あるいはアンケートの年齢記入欄……。

 若さに触れるたびに、ハッとすることが多い。あまり人付き合いが上手でない私にも、若さに触れる瞬間というのはたまにあり、年長者を相手にするときとはまったく違う感興を湧かされる。それは生命の煌めきのようなものなのかもしれない、と私は思っている。同時に、その煌めきの曇りに対する苛立ちのようなものも感じている。

 尊敬と軽蔑の両方が混じり合った奇妙な関係性が、そこにはあるのだろう。それを奇妙と断ずることに、多少躊躇わないでもないのだが、けれどもそれは自分自身がいつか来た道でもあるはずなのだ。そして、相手が若かろうが何だろうが、結局のところ対するのは人間であって、実のところ“若さ”とは関わりのないものであるはずなのだ。

 だから奇妙な嫉妬心をここで私は抱えていることになる。自分よりもうまくやっている“永遠に若い彼ら”に対して。自分よりも下であって欲しい、上に行って欲しくないという足を引っ張りたい願望が一方ではあり、他方でどうしてここに留まっているんだろう、もっと先に行かないのか、という苛立ちもある。

 しかしながら、私たちがいる場所は、それぞれの成長と停滞により一進一退を繰り返し、ほとんど平行線を辿っている状態なのかもしれず、この不安と苛立ちには何ら意味はないのかもしれない。そして実はその平行線を描き続けている状態というのは、単なる郷愁しか存在しておらず、ほとんどまともな意味は有していないのかもしれない、と思っている。

 私はかつて“真っ当さ”のために、何人かの人間関係をすっぱり切ったことがあった。それは差別的言動を繰り返す人間とこれ以上付き合っても致し方ないのではないか、というのが理由の一つではあった。人間付き合いは基本的に疲れるものと認識しているが、最終的にどこかしらに繋がりがないとやっていけないのも個人的なものとして事実であり、そのアンビバレントさに悩む。

“永遠に若い彼ら”との相互理解はおそらく不可能だ。ちょっと前に気づいたが、私は彼らの言うことがさっぱり分からない。たぶん分かっているような気がしているだけで、その実、彼らの信奉する価値観も信念も、何一つ分からないまま、共有できる可能性を探りつつ終わるのだ。

 

【関連記事】

 結局のところ、“若さ”に対する意識というのは大体常にあるということなのかもしれない。

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