Outside

Something is better than nothing.

視野を広げる直截な方法

Construction

 視野の狭さを改善するにはもちろん視野を広くするより他はないのだけれども、実際そのように取り計らおうとしたところで、一朝一夕にどうにかなるものではない。しかしながら、実は非常に簡易にそれができるということをある本を読んでいると分かったのだが、その本はというと、小林秀雄岡潔の対談『人間の建設』(新潮文庫)になる。

人間の建設 (新潮文庫)

人間の建設 (新潮文庫)

 

 無論のこと、今日日「人間」を「建設」することが果たしてできるのか、という疑問が頭には浮かぶのだが、しかしながらこの対談が行われた時期においては成立する概念だったのだろう――しかしこの「人間の建設」という言葉にはどこか、人間というものはさまざまな材料とそれを組み立てる施工業者がいれば自ずと出来上がるといった、機械的なニュアンスがあるように感じられもするのだし、ある意味で不気味な言葉でもある、そこには本来の射程であったはずの「人間」というものからはこぼれ落ちた人工的な響きがあるのだ。

 私はこの中の一節が気に入って、たまに読み返したりするのだが、ある意味で小林秀雄的な放言というか、そういった感じがする。そもそも今は『作家の顔』(新潮文庫)を読んでいて、そこにある「様々なる意匠」的な喝破を心地よく感じつつ、一体何を言わんとしているのか、分かるような分からないような気がするのだが、それは果たして批評的に問題はないのだろうか、と考え出すと、もはや本筋から逸れる。

 で、視野の広げ方なのだが、小林は以下のように述べている。

視野をひろげたければ、広角レンズを買えばよい。(117頁)

 おお、と思ったのを覚えている。実に直截な方法ではないか。これ以上の視野の広げ方に対する実践的なメソッドはない。けれども、真剣に視野を広げたいときにこの答えに満足するかというと、おそらく違っていて、この場合の視野の広げ方とは肉体的な視覚に基づく視野ではなく、自身の興味関心になるのだ。

 しかしながら、実際のところ視野の狭い私たちは見たいものを見、見たくないものを見ないようにしているが、そうであるばかりか、得てして「見たいと思っているもの」をきちんと見ていないことさえある。もう対談の前後の文脈は忘れてしまったし、一体どういう意図で小林が上記のように述べたのかということは一切思い出せないのだが、こういう発言の裏には身体性から隔絶された脳髄の孤独がある。だからこそ視野と述べたとき、身体に基づく語彙を著しく離れた印象を抱くのみならず、期待をしてしまっているのであり、我々の脳髄は言葉を解釈するにあたってもはや身体をあらかじめ念頭に置かないようになってしまっている。

 これが比喩表現であるということは当然ではあるのだが、しかしこの比喩の含意する印象が当然のように本来の語彙に覆い被さってしまっている。ここに脳髄の孤独がある。

 しかし、広角レンズの購入は逆説的に視野を広げるという可能性を秘めているところに、この小林の放言の意味があるのだろう。

『ザ・マミー』(2017年)

 アレックス・カーツマンの『ザ・マミー』を観る。

 トム・クルーズ演じるニック・モートンは米軍に所属しながら、イラクで略奪を働こうとワンナイト相手のアナベル・ウォーリス演じる考古学者ジェニー・ハルジーから地図を盗み出し、現地に赴くも戦闘員が多数いることから、ジェイク・ジョンソン演じる相棒のクリス・ヴェイル共々殺されそうになったところ、火力支援要請によって救われ、さらには探していた宝物を見つけることができる。しかしそれは古代エジプトにおいて、呪われた王女として封印された ソフィア・ブテラ演じるアマネットであり、不用意なことに封印を解いてしまったことにより、ニックはアマネットに「選ばれし者」として執拗に狙われることになる。手始めに移送中の飛行機内で、アマネットの眷属(クモ)に噛まれた相棒クリスが上官を刺し殺し、さらにはニックたちに襲いかかり、カラスは異様な反応をもって飛行機に襲いかかり、飛行機は墜落する。そのときにジェニーを助けたニックは、死を覚悟するのだったが、しかし呪われた所為で彼は無傷で助かる。そして墜落したイギリスの、最近発見された十字軍の墓にある宝玉と、教会に隠されたダガーをセットにして、ニックを突き刺せば死の神セトが蘇るということで、その宿主としてニックは殺されかけるのだった。しかし、危ういところをジェニーが所属する対モンスター組織「プロディジウム」に助けられ、ラッセル・クロウ演じるヘンリー・ジキル博士と出会う。博士は悪を病原菌として捉え、自らのうちに潜む悪の権化としてのハイドを定期的な薬の投与によって抑制させている。助かったかと思われたニックだったが、博士は悪を召喚しようと彼に死を受け入れるように説得されるのだが、もちろん断り、博士の薬の投与を妨げたことによってハイドの人格が表に出てきてしまう。その兇暴なハイドと戦闘している最中、隙を突いたアマレットは「プロディジウム」の連中を操って逃亡する。ジェニーと共にニックもロンドンを逃げ回ることになるのだが、眷属を多数従えたアマレットに追い詰められてしまう。そして宝玉とダガーとを手に入れたアマレットはジェニーを溺死させ、ニックにセトを受け入れるように言う。ニックはアマレットによる死ではなく、自分で自分を突き刺してセトを召喚し、その力をもってしてアマレットをふたたび眠りにつかせ、さらにはジェニーを蘇らせるのだった。かくしてセトととなったニックは、それでも内面に善の要素を持っているらしく、相棒のクリスをも蘇らせ、果てしない旅に出るのだった。

 はっきり言えば駄作である。トム・クルーズでなければ退席したかったくらいに面白くない、言わば大作映画にありがちな大味ということなのだが、昨今のブロックバスター映画は商業性と芸術性を奇妙に融合させることに成功させているものが多い中で、ここまでのスッカスカな味というのは、逆に珍しいように感じられるのだった。

 例によってトム・クルーズが乗る飛行機というのは墜落し、例によって無傷であるというところで、さらには例によってトム・クルーズはクールなガイなわけで、悪いわけではない。悪いわけではないのだけれども、この映画に求められる「ニック」像として、トム・クルーズという人間は、残念ながら恐ろしいくらいに適していないのだ。これがブラッド・ピットロバート・ダウニー・Jrであればまだしも、彼の俳優としてのキャラクター(記号)は、もはや15分間だけの愛を囁けるほどにはいい加減な人間ではなくなってしまっている。そこにはヒーローとしての苦悩と向日性があり、決して「ニック」のようなキャラクターを演じるのには向いていない。

 もちろんこれはどう考えても監督と脚本の悪さである。監督アレックス・カーツマンは『ミッション:インポッシブル3』(2006年)で脚本を担当していたらしいのだが、かつて伊藤計劃が批判した「ラブシーン」の演出の悪さを見事なまでに引き継いでいる。本作ではそれっぽいものを積み上げておけば、それっぽく映るだろうという観客を舐め切った思考の元で映画が作られているため、結果的にとりとめのない映像ばかりになってしまっているではないか。これでは『ハムナプトラ』(1999年)に、映像的にも何ら勝ち得ていない。シーンの意味が、必要性が、根拠が、まったく不足している。

 俳優たちは自らのポテンシャルを遺憾なく発揮し、ラッセル・クロウ演じるジキル博士とハイドは、この映画の中で唯一(というか例外的に)よかった。それはラッセル・クロウの俳優としての力が優れていたというだけである。結果的にジキルの下りがあることで(ダーク・ユニバースシリーズの導入としての映画という要素が邪魔すぎて)、映画としての方向性がかなり鈍ってしまっているのは事実なのだ。

 非常に残念な映画だった。