Outside

Something is better than nothing.

道すがら

Night Light

 人生が楽しくない瞬間というのは、楽しかった直後にやってくるのが常なのか、大体にして楽しい宴会の後、ひとりで帰っているときにそれは襲ってくる。享楽的な振る舞いを持続することのできない体力のなさが、結果的にはその享楽自体の代償を支払う羽目になる。だから、というわけでもないのだけれども、私はその跳ねっ返りが怖いからこそ、あらかじめそれを減じるためにいくつかの手段を講じるようにしているのだった。

 例えばそれは歩行だ。

 夢見心地の状態で、私は自宅まで歩いて帰る。二時間かかろうが、雨が降っていようが、よっぽど帰宅困難な距離ではない限り、最寄り駅から二駅か三駅ほど離れたところで降りて――というよりは終電を逃して――歩いて帰るようにしている。

 すでに十回以上はそういったことをやっているようになるのだが、別に義務的に決めたことでもないので、必ずというわけではない。けれども、楽しい宴会においては往々にして飲み過ぎるきらいがなきにしもあらずであり、そうなってしまうと必然的に帰りの電車がなくなることは確かによくあるのだった。

 夜道にはさまざまな人がいる。夜の街で働く人々や、タクシーの運転手、二十四時間営業のお店で働く店員、酔い潰れて動けない女の子や、これから仕事なのかもしれないスーツ姿のビジネスパーソン、私と同じ身分の酔っ払い……。それらを大体は横目に流しながら(だって危険だし)、とぼとぼと歩いて帰る。

 その間に、体の中に残っていた酒精はどこかに飛んでいく……わけでもなく、翌日の猛烈な二日酔いに悩まされることになるのだが、気づけば知らない場所にいて慌てて地図を見ることもしばしばだ。

 私の感興も、この宴会後の落ち込みも、何もかもまったく何の意味もない、最近の季節で言えば寒空の下のどうでもいい感傷でしかないわけであり、その感傷こそが結局のところ度しがたい行動に至らしめるものなのだと推察する。

 かくして、その道すがら、例によって破滅と再生を繰り返した挙げ句として、今という碌でもない時間に留まることとなったのだ、ということを思うのだった。

 三国志で有名な曹操は、「対酒当歌 人生幾何」(「短歌行」)と歌ったが、私たちには酒に向かって歌う詩もないまま、ただ人の世が幾ばくでもないことだけは知っている。

『ブレードランナー』(1982年)

 リドリー・スコットの『ブレードランナー』を観る。二度目の視聴。

 環境汚染によって人類は地球外に居を移したのだが、少なくない人間たちが未だに地球で暮らしており、その中で彼らはレプリカントと呼ばれるアンドロイドを労働力にしていたのだが、彼らは数年経つと感情が芽生え、人間に反旗を翻すようになるので、人間社会に紛れ込もうとするレプリカントを解任するためにブレードランナーという職業があった。ハリソン・フォード演じるデッカードは、その特殊な応答法によるレプリカント判別法を持ち、地球に紛れ込んだレプリカントを見つけ出すために捜査を始める。そしてレプリカントの発明者であるタイレル博士の元に情報収集のために赴いた際に、ショーン・ヤング演じるレイチェルというレプリカントと出会う。また、ルドガー・ハウアー演じるロイはレプリカントの筆頭で、彼を中心としてレプリカントの逃亡が始まる。

 美術が素晴らしいというので、ほとんど話はどうだってよく、個人的にはうどんの下りや日本語看板というのは、すでにタイに行ったりしていると今さら感があるので、別に感心はしない。

 ということで、この映画への思い入れというのはないのだけれども、しかしリドリー・スコットの初期映画における美術のこだわりとその映画への寄与というものは凄いなあとひたすら感心するのだった。『レジェンド/光と闇の伝説』(1985年)とかも悪くないぞ。

 あと後半にロイに握られている白い鳩が可哀想と思ってしまう。