Outside

Something is better than nothing.

ジャコメッティの複数

Alberto Giacometti, Three Men Walking, 1948-49

 たぶんリートフェルト展以来ということになるのだろう、美術展に足を運ぶことになった次第であるのだが、行ったものと言えばジャコメッティ展で、元より絵画については何も分からない私ではあるのだけれども、かといって彫刻が分かるのかと言われれば、無論分からないわけで、では一体どうしてジャコメッティ展に行ったのか、と言われれば、明大前駅吉祥寺駅であの異様なフォルムをしたジャコメッティの彫刻のポスターを見たからであり、それ以上でも、それ以下でもないと言われればそうではあるのだが、そこに写されていたジャコメッティの彫刻の持つ異様な肉体とでも言おうか、そういう類の求心力が国立新美術館に私の足を運ばせるに至ったのだった。

 まずもって別段美術を見るに際してインパクトを求めているわけではないし、インパクトというより要するに斬新な刺激とでも言うべき、何か既存の枠組みに囚われない、そう言ってよければ新奇さを求めていたというわけではないのだけれども、ジャコメッティの「歩く男」というものは異様な力を持っているようだったが、しかし実際に足を運んで実物を見たところ、思いのほか感心しなかった。

 この関心の少なさというのは、私個人の嗜好に由来するだろうし、はっきり言えばジャコメッティの創作をきちんと理解しているわけではない、実に浅薄な感想に過ぎないわけであるのだが、けれどもこの展覧会の中で二つだけ気に入ったものがある。一つは「女=スプーン」で、これは女性の身体を象徴的に表していて、個人的にはかなり気に入った。あともう一つは「3人の男のグループⅠ(3人の歩く男たちⅠ)」(以下「3人の男」)で、これを見た瞬間、スリリングな思いをしたことを覚えている。

 この「3人の男」はこの展覧会で展示されていた作品の中で、唯一他者との関係性を描いていると言えるものであり、なおかつその三人の男たちが誰とも交わらないという交差をも表している。それ以外のジャコメッティの彫刻は、どれも非常に孤立した肉体を描いているように見えてならず、「ヴェネツィアの女Ⅰ-Ⅸ」にしても、その並べられた彫刻の異様さに一瞬目を奪われることはあったとしてもスリリングな感じまでは受けない。そこには孤立した肉体の姿が表象されているのであって、「3人の男」のような関係性までは示唆しないのである。

 だがこの「3人の男」は、それぞれ道行く男たちの一瞬を切り取りながら、なぜか暴力的な感じがする危険な作品のように感じられた。というのも、作中における二人の男たちはそれぞれ行き交っているのだが、そこに第三者が登場することによって、その彼らが行き交う方向に単純な二分法に依らない(それこそそのままの)第三の選択肢が登場してくるからである。

 さらに彼らは一切触れ合わない。立体的に展開するこの彫刻の中で、彼らの接触可能性はゼロに等しい。彼らはそれぞれ行き交うだけであり、その一瞬の行き交う瞬間の後は、おそらく永久に出会わない運命にある。この「距離」が、三人の男の空間的な処理に加えて、さらにこの彫刻をスリリングにさせているものであろうと推察する。

 雑な言い方をすれば、ここには映画があるのである。

 

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 リートフェルトについての記事。

joek.hateblo.jp

『ブレア・ウィッチ』(2016年)

 アダム・ウィンガードの『ブレア・ウィッチ』を観る。

 大学生4人組のうち一人が、数年前に姉をブレア・ウィッチ伝説によって失っており、その執着に基づきドキュメンタリー映画を作ることにかこつけて森に探しに行くが、オカルト好きなカップルの悪戯めいた余興に苛立ちを募らせていると、どんどん状況が悪化していき、本当に魔女伝説に基づく事態が起こり始め、夜は明けず、GPSやドローンをもってしても森を抜けることができないので、彼らは森に、そして魔女に囚われることになり、最初にYouTubeで観たはずの森で発見されたビデオテープの内容が反復される。

 決して傑作というわけではないのだが、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)は結構好きだったのでこの作品を観ることにしたのだが、まあそれなりに面白かった。

 状況に対して、当時と現在とで決定的に違うのがテクノロジーの導入であり、というかむしろその差異を明確に表現するにあたって、それしか手立てがなかったように見えなくもないのがある種この表現形式の完成度の高さ(とその限界)を表すような気がしてならず、例えばジョージ・A・ロメロの『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2008年)ではカメラに対して批評性を持たせていたように記憶しているのだが、ここでの複数のカメラ視点はもっぱらテクノロジーの問題に堕してしまっているようにも見える。だから最終的にやや唐突にも見える冒頭からの反復の意味合いというものは、個人的には好きな表現ではあるのだが唐突な感が否めない。

 結果的に登場人物たちの魔女伝説に対する不信という状況設定自体が実はどうでもいい問題であり、個人的にはもっと足の裏がもぞもぞして欲しかったような気もするし、明けない夜の森を延々と髪の毛がピンクだったり青色だったりする女の子と一緒に彷徨ってみたかったりもするので、その辺りは少し考えて欲しかったような気がする。ある種、原作の忠実な再現と言えなくもない点で、確かに正統な続編と言えよう。

誤った認識に基づき頭を叩かれる

Sharon Corr

 一年ほど前になるが、妻の知り合いと一緒に三人でお酒を飲む機会があり、飲んでいると、その知り合いが私と同じ大学出身ということが判明した。その人の方が年配だったので、先輩後輩という仲になるわけなのだが、それが判明した途端、その方の態度は横柄になり、生意気だということで頭を叩かれたことがある。

 まったくの他人から、このような仕打ちを受けるのはおそらく高校生以来のことであり、私は驚いたのだが、叩いた当人はと言えば、陽気そうにお酒を飲んでいた。私はそれ以来、その人とお酒を飲む機会があったとしても避けるようにしているのだが、妻を通じて何度か誘いをもらっているのだが、そう考えるとその当人にとって、頭を叩くということは何でもないことのように感じられていることが分かる。

 もちろんその人は会社勤めをしており、さらには東証一部上場企業にも勤めている人間なので、コンプライアンスを知らないはずもなく、昨今のハラスメント事情にも通暁しているはずなのだが、しかしながら私が大学の「後輩」――とはいえ、当然面識もないのだから「先輩」らしいことをしてもらったことは一度もない――と分かった途端に、それまで見せていた「知り合い(私の妻)の夫」という認識から、突然「後輩」へと認識を改め、平然と頭を叩ける間柄になったのだと誤認した。

 何も、知らないのである。わからないのである。優しさということさえ、わからないのである。つまり、私たちの先輩という者は、私たちが先輩をいたわり、かつ理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、後輩の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は抗議したいのである。(太宰治「如是我聞」より)

  もちろん私は当人の「後輩」であるわけではないのだから、その「先輩」「後輩」という関係性が擬似的に構築させられてしまったその瞬間において、太宰治の「如是我聞」を思い出したのは、誤認識の伝播というより他はない状況ではあるのだが、それにしたって私にとって先輩という存在は大体において後輩のために骨を折ってくれる存在であった。少なくとも私自身の先輩の理想像というのは後輩の頭を無碍に叩く存在ではなく、後輩を助ける存在であり、理解者であった。

 実際、その域に達することができていなかったとしても、あくまで理想像としてはかようにありたいものだと私は常々思っていたのだが、かくも無残な「先輩」を目にしてしまうと、若い認識なのかもしれないのだが「このような大人にはなりたくないな」と思うわけであり(とはいえすでに私は充分に大人なのだから、「このような中年にはなりたくないな」が正しい)、東証一部上場企業にあってもなお、このような謎めいた(事実に基づかない)「先輩」「後輩」関係は擬似的に構築されうるのだなと人間というものの持つ認識の精度の悪さをまざまざと思い知らされることになるのだった。