Outside

Something is better than nothing.

『モネ・ゲーム』(2012年)

モネ・ゲーム (字幕版)
 

 マイケル・ホフマンの『モネ・ゲーム』を観る。

 コリン・ファース演じるキュレーターのハリー・ディーンはメディア企業の社長であるアラン・リックマン演じるライオネル・シャバンダーの下で、モネなどの印象派を中心としたコレクションの収拾と管理に携わっていたが、彼の横柄さに業を煮やし、モネの連作『積み藁』の、長らく行方が分からなくなってきていた「夕暮れ」を、知人の退役軍人であるトム・コートネイ演じる少佐に贋作させ、金を騙し取ろうと画策する。日本人コレクターのゴウ・タカガワとの競りに勝ち、もう一つの『積み藁』である「夜明け」を手にしてから、おそらくその収集欲は天井知らずになったであろう、という思いからである。戦中のナチスによる美術品強奪からの一騒動を利用して、信憑性を高める背景を作り出し、現所有者として、プズナウスキー軍曹の子孫でテキサスに住むキャメロン・ディアス演じるPJ・プズナウスキーを選定する。彼女はカウガールで、無教養ではあるが、ひたむきな性格だった。彼女を仲間に入れることになるのだが、ハリーには悪癖があり、物事を良い方向に考えがちであるといったもので、PJを仲間に加えるときもまた良い方に考えすぎた結果、殴られてしまうことになる。無事にロンドンに連れてきたまではよかったのだが、その後もハリーの思惑通りに事は進まず、ライオネルとPJが男女の関係になってしまったり、ホテルで半裸のままうろつく羽目になったり、資金が底を尽きかけたりするのだった。さらにはキュレーターをクビになりかかりもするのだが、その後は何とか商談に持ち込むに至り、最後にモネの「夕暮れ」を鑑定する箇所でキュレーターとしての眼力の鋭さをライオネルに見せつけ、PJとともにその場を後にする。しかしハリーの目論見は別にあり、実は「夕暮れ」の贋作を売りつけようとしていたのではなく、本当は「夜明け」を盗み出し、それをゴウ・タカガワに売りつけるというものが本来の計画だったのであった。

 短めの作品で、サクッと視聴することができる、という点がまずこの映画の素晴らしいところではある。その上で、この映画が仮に120分あったとして、好ましいものと印象づけることが果たしてできたのだろうか、と思うのであった。そういった意味で言えば、この映画がどういった理由があったにしてもこのサイズで出てきた、というところは、まず何よりも監督の力量としては適切だった、と思うのだった。

 コーエン兄弟が脚本を書いている、というところで興味を持っていたのだが、視聴しながら、PJを演じるキャメロン・ディアスの魅力に虜になっていた。別にキャメロン・ディアスのことを好きだったわけでもないのだが、ここに描かれたひたすらにひたむきな様子というのはなぜか異様に好ましく感じられてしまい、微妙に知性的な空間から反知性主義(祖母の金言)の勝利に終わるかと思いきや、結局知性の世界へと戻っていく様が、どことなく嫌いになれない自分もいた。

 しかし、この映画はある意味で言えば冒頭のアニメーションで終わっていたのではないか、と思わなくもない。

Kindle作品紹介

概要

 陸条(Joe Kuga)として、AmazonにていくつかKindle作品を公開および販売しておりますが、その紹介一覧になります。この記事は随時更新とし、更新時は日時を最新のものに修正いたします。

お知らせ(2017年7月1日)

・『Slipstream』を公開しました。

 

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前進運動

spring forward

 前へ前へ進もうと考えることそれ自体にたぶん意味はなく、結果的に表出されたものにこそ意味があるのだろうと思いつつ、しかしながらそれを作り出すためにはその気持ちが必要ではある、と考えるわけなのだが、例えば小説を書くときに、一体どこまで続けられるのだろうと、暗中を模索するような気持ちで、今自分がいる地点がどこなのか分からず、果たしてその先に何があるのだろうか分からない、不安である、けれどもこれを進めていかなければならないといった感覚を、ようやく掴めたような気がする。

 短編小説を書くとき、そこにある言葉の数々はどこか、書きつつあるその手と私自身の語彙と一致していなかったか。書くことに関しての体力に限界が訪れて、長くても100枚程度しか今まで書けなかったのだけれども、その中で例えば70枚辺りを過ぎたときから、もう息も絶え絶えといった状態になってしまい、書けなくなってしまう。自分の書くモチベーションが尻すぼみになっていき、どうやって終わらせるか、ということに気持ちが終始してしまう。もちろん構成上の必要というものはあるのだけれども、それはどこか撤退戦のようなものだった。

 先日当初は300枚、最終的には280枚の小説を書いて、いろいろと発見したことがある。

 書いている途中で息苦しさを感じながらも、どこか前へ前へ進もうというモチベーションがずっとあった。資料を読んでいるときも、考えているのは小説のことだった。私は卒論を書いていた当時を思い出した。あのときも、大体は50枚前後でまとめるようにと言われていたのだが、当時の私は100枚以上書きたくて仕方なかった。結果的には70枚くらいで終わってしまったのだが、おそらくゼミの中では一番分量が多かったのではないか、と思っている。そのときに私が感じていたのは、ただただ前へ進もうということだけで、そこでは表面的な論理展開からは離れて、ひたすらに作品世界を詳らかにしていきたいという思いだけがあった。

 書いているときに資料以外で念頭にあったのは佐藤亜紀の『小説のストラテジー』と保坂和志の『小説の自由』だった。この二つの本は、作者としての私とは別の、書きつつある手の味方として、小説を前へ前へと進ませてくれる本だ。厳密に言えば、この二つの本の背後に『小説のタクティクス』(佐藤)と『小説の誕生』(保坂、以下同)、『小説、世界の奏でる音楽』があるのだが、いずれもこの書き手の前進を手助けしてくれる本であることに変わりはない。

 もちろん一生懸命に書いた今回の小説も、「だって屑じゃん」と一蹴されてしまう可能性は充分にあり、そしてそれこそが小説やその他の芸術の面白さではあるのだけれども、たとえそうであっても私はこの小説を書いたことによって、どこか別の場所に運ばれていったのだという感覚があって、それが非常に喜ばしい。「だって屑じゃん」と言われる可能性のある地平に行けたのではないか、と思えることが。

 たかだか280枚程度で、という気持ちもあるのだけれども、これまで改行を増やすなど小細工を弄した上で最長でも180枚程度しか書けなかった書き手としては、この枚数を書けたということが純粋に嬉しいのであり、同時にこの感覚というものはちょっと記録に残しておきたいという思いがあった。