Outside

Something is better than nothing.

小説のエネルギー

 

Energy

 久々に小説を書くようになって、その書きっぷりがまた単に書くことが可能という状態ではなく、思考自体が小説を書くものに変貌している、ということに驚いている。具体的には記述の果てにぐちゃぐちゃした、時に矛盾するセンテンスを書けてしまっているというところで、ややもすれば無意味になりかねないセンテンスを書きながら、とんでもない幸福に浸っている。そしてその巨大さが、同時に大きな落胆をも呼び起こしている。

 平坦さだけが、あるいは普通さだけが思考の中心にあるときには、それはそれで穏やかではあるのだが、けれども何か物足りない。物足りないということは、何かに不満を持っているということになるのかもしれないのだが、そういうわけではなく、単に思考の向ける先が異なっているというだけなのだ。

 小説を書くとき、物凄い量のエネルギーが、どんなに稚拙なものであっても入り込んでいて、そのエネルギーを制御しながら、抑えきれない何かが小説を突き進めていく。小説の思考というものはとんでもないエネルギーの渦中にあるということだと思っていて、そのエネルギーは小説を書き続け、小説について考え続けることでしか到達できないと、少なくとも私の場合に限れば、思う。

『リバース』(2016年)

 カール・ミュラーの『リバース』を観る。Netflixで視聴可能。

 アンドリュー・J・ウェスト演じるカイルが銀行に勤めており、そこでSNSを用いた広報を担当し、ローンについて宣伝している。上司との関係性がやや危ういものを孕んではいるものの、結婚してすでに子供もおり、穏やかな日常を送っていた。ある日、アダム・ゴールドバーグ演じるザックが訪れ、「再生」に参加しないかと持ちかける。日常世界はゾンビなんだと力説し、訪れるように促すザックに、久しぶりに再会したこともあってカイルは「再生」に訪れる。しかしながら、訪れた先では誰もおらず、意味深にホテルのカードキーがあったので部屋を訪れると、さまざまな仕掛けがありビデオを観たところで、外にバスが停まっていることに気づいたカイルは乗り込もうとする。そこで女性に制止されるものの、乗車し、「再生」の会場に目隠しをされたまま向かう。自己啓発セミナーじみたテンションの高い集団に、新参者ということで弄られつつ、先ほどの女性が出て行くべきだと言うものだからカイルは会場から出るのだが、自由意志と言いつつ、ある種の方向決めをしていく問答の末に、彼は「再生」施設のさまざまなところに迷い込み、殴られたり、セクシーな目に遭ったりとする。ザックの悲鳴が聞こえたところで、カイルは我に返ってセクシー軍団を退けて彼を探すのだが、部屋に入ると虐待を受けるザックの姿があった。カイルは彼を助けるものの、何らかの薬物を投与されているのか、ザックは著しく混乱している。危険だ、カルトだと判断したカイルは、「教祖」にナイフを突きつけて施設をザックとともに逃げようとする。だが、逃げた先には集団が待ち構えており、「再生」の第一段階が最速で終わったとカイルを迎え入れるのだった。カイルは戸惑ったまま逃げ、ザックにこれが「再生」だと告げられるものの、家族の元に戻りたいので元来た道を戻っていく。家に戻ったカイルは、しかしそこら中が「再生」のプロダクトだらけになっていることに気づき、先ほど別れたはずのザックが風呂に入ってさえいるので激高し、ザックがこれを止めるために銀行のサーバーにログインして金を横領してくれと言うので、家族を盾に取られたカイルは仕方なく頷き、ガレージに待機しているカメラを持った女性の前でパソコンにログインし、第一段階が終わったというインタビューを受ける。そして「再生」のプロモーションビデオの中には、積極的に「再生」のメンバーとして活動するカイルの姿が映るのだった。

 決して「傑作」という水準ではないものの、それなりのクオリティの作品を出してくるNetflixのオリジナル映画なのだが(『ビースト・オブ・ノー・ネーション』を除いて――あれは傑作と言っても過言ではない)、本作もまたNetflix的な水準に仕上がっている。

 デヴィッド・フィンチャーの『ゲーム』(1997年)とほとんど同様のプロットにはなるものの、作中、ザックが繰り返し述べる「ゾンビ」という言葉に着目したい。

『ゲーム』においてマイケル・ダグラス演じるニコラスは、たしかそれなりに格のある金持ちだったと思うのだが、『リバース』のカイルは銀行員であるものの、金持ちというわけではなく、言わば中流クラスに位置していると思われる。注目したいのは彼がテクノロジーの恩恵によって新設されたSNSによる広報を担当している点と、作中でもバスの中でスマートフォンが回収され、さらには個人で設定するセキュリティが甘かったために銀行預金を奪われているという点である。

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  スマホ・ゾンビという言葉が歩きスマホの言い換えであるのだが、スマートフォンとゾンビの親和性は高い。意志を剥奪され、本能が剥き出しになった印象を受けるからだろうか、と思うのだが、例えばソフトバンクのCMで広瀬すずが「大人たち」に言わされている「私たちはスマホと大人になっていく多分初めての人類だ」という台詞もまた、空々しさを覚えるとともに資本主義的な構造によって意志を剥奪され、本能が剥き出しになったゾンビらしさを覚える。

 だからすでに「大人たち」に脚を突っ込んでいて、なおかつスマホによってゾンビ化してもいる「私たち」にとって、ゾンビの側に、たぶんデヴィッド・フィンチャーが『ゲーム』と『ファイト・クラブ』(1999年)を撮った辺りに接続してしまっていたのだろうと思う。やや唐突で性急な印象のあるザックの「ゾンビ」という言葉は、その実、ロメロが『ゾンビ』(1978年)を撮ったときから、そういう射程を持っていたのだし、そういった意味ではこの『リバース』という映画はゾンビ映画の傍流に位置すると言っても過言ではない。

『リバース』の文脈では資本主義の延長線上に解決を見出そうとしていて、だからこそ彼我を「ゾンビ」という言葉によって分かつ必要性があった。「ゾンビ」は資本主義社会における規律を内面化し、その権化であるスマートフォンを常に携帯し「世界」と接続する。「再生」の母体は非営利団体であるものの、資金調達のために銀行にハックしなければならない。またスマートフォンが回収されるということは、「再生」のために(元々いた)「世界」との接続を切断するということになるのだろう。ゾンビは他者に感染するものではあるのだが、そういった意味で言えば「再生」は解毒剤としての側面を持っている。そしてゾンビと人間との関係の中に、絶対的な他者性、対話の不可能性がある以上、上下関係が構築されており、劇中「再生」を経ている人々がそうではない人々を見下す描写があるのだが、それはそういうことなのである。

「ゾンビ」の名の下ではあらゆる差別と暴力が容認されており、もちろんそれは現実の反映に他ならないのだが、その表現を「ゾンビ」に集約している、ということが実は問題なのではないか。

ランド・オブ・ザ・デッド』(2005年)という作品がロメロにはあり、新ゾンビ三部作とも呼ばれる一連の批評的なゾンビ映画の中でももっとも異色なものであるのだが、その中でゾンビは自我を持つようになる。ちなみに作品自体のクオリティは低い。

 そもそもロメロの『ゾンビ』は消費社会への皮肉を込められていた批評性を持つ作品でもあったのだが、その娯楽性のみが抜き出されていき、今や「ゾンビ」は『リバース』で使われているようなものになっていった。だからこそゾンビの生みの親と言ってもいいロメロは『ランド・オブ・ザ・デッド』の中で、新たな要素をゾンビに付与することになる。

(ちょっとうまくまとまっていないので、いつか別エントリに、あるいは記事自体を加筆訂正するかもしれない)

完成の水準

Perfect Hepatica Wallpaper

 金井美恵子のエッセイ・コレクションが2014年くらいから全四巻で刊行されていて、彼女の「目白雑録」シリーズが好きだったので購入してみて、ちまちまと読み進めている。けれどもまだ第一巻の『夜になっても遊びつづけろ (金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 1 (全4巻))』さえ読み終えていない始末で、それでも多少は読み進めながら、金井はほとんどデビューしたときから「金井美恵子」だったのだということを感じる。

 もちろんある意味で「成人」すれば人間として完成しておくべきなのかもしれないのだし、作家としてデビューする以上、それ相応の完成が求められているのではないかと思わなくもないのだが、金井はかなり若いうちからデビューしていたはずであり、その長い作家生活の中で完成に至っているものとばかり思っていたので、「目白雑録」シリーズを読んでいたときと初期のエッセイを読んだとき、両方ともに「金井美恵子」だった、ということに驚きを覚えるのだった。

  翻って我が身を省みると、そういう完成の水準とはほど遠いところにいる。人間自体が(自動的に)ある完成の水準に至るのかどうかということには懐疑的な感も抱くのだが、けれども一応は教育の過程でそういうことになっているはず、なのであるのだから、私もまたある程度の完成の水準にまで機械的に達成していなければならない――のかもしれない。

 とはいえ、書き物の中で、さまざまなテクストが私自身を形作っているときに、その遍歴を辿っていくとまったく自分自身に至らない。もちろん歳を取るとまったく別人になってしまうという研究もあるくらいなのだから、たかだか十数年のスパンであっても人間が変化してしまうということについて自分としては説得力がある。

 しかしながら、この完成の水準というものは、作家という職業ゆえに達成されているものなのか、はたまた読み手の印象に過ぎないのかは分からないのだが、かなり驚くべきことなのではないのか。