Outside

Something is better than nothing.

クッションがない状態

Time, light, and window were one

「お前は今日はなんだか見知らない薔薇色の少女みたいだよ」
「知らないわ」彼女はまるで小娘のように顔を両手で隠した。
堀辰雄風立ちぬ」P.139、新潮文庫

 以前に一度書いた覚えがあるのだが――たぶん『テッド』ではなかったのかと思うが、そういった映画の台詞で、女の子とか男の子とかと別れたばかりの人物が母親に「温かいクッションなんていくらでもいる」的なことを言われていて、そのパートナーとしてあるべき存在を「温かいクッション」になぞらえて言うのは、個人的には慧眼だと思っている。まあ、たしかに女の子の柔らかな体だったり、あるいは受け止めて欲しいときの男の子のがしっとした体つきなんていうものは、いずれにしてもクッションと呼ぶしかないよなあ、と。

 星の数ほどいるのかもしれないのだが、その人、となると、世界中を探しても一人しかいないというのは恋愛の辛いところで、時間が経てば「まあ、その人じゃなくてもよかったよね」的な感想を覚えることもあろうが、その時間の経過による傷の癒やしはまずもってかなりの長期的なものになる、という想定をした方がいい。

 だから恋愛がいいとか悪いとかそういうことじゃないけれども、パートナーという立場になってくるとその意味合いというのはより重層的に、複雑になってきて、パートナーのパートナーたる必然性というのは当然に薄くて、その薄さを愛によって糊塗する。「わたしがあなたを」「あなたがわたしを」愛する理由、側にいる理由なんて何もなくて、それがあると思い込まされているのは結婚やその他のパートナーシップに関する制度によるものだろう。けれども、「その人」となるといそうはいかない。

 漱石を評するときに、誰かがキリスト教における愛の「危険性」について言っていて、それはもちろん議論が必要なことではあるのだけれども、この「危険性」、漱石の描いた愛というのは社会制度を破壊しかねるほどのものだった、とする。

「月が綺麗ですね」という言葉が漱石の言葉としてあると仮定した場合、つまるところ漱石にとって「愛」とは直截な言葉で記したら都合が悪いものだった、と夢想することができる。漱石は愛の持つ危険性を(キリスト教を経由して)熟知していたからこそ、この迂遠な言葉を生み出したのだ、と。私は『それから』が好きなのでこれを例にとるが、代助が突入していく赤い世界は確かに愛に起因するものだった。

 どちらかにとっても、このクッションは同時に弾丸のような危険を孕みうるものである、ということは一つ言えるのかもしれない。その居心地の良さに出会うために、人はたやすく社会的な観念、制度を跳躍していこうとする。その原動力は時に素晴らしいものとして映るが、制度にとってはしばしば頭を悩ませるものとしてある。

 おそらく「その人」という存在自体が、私たちの認識の中で重要な部分――偶然性に対する認識を破壊するのだろう。結果としてその認識の破壊ないし変容は、クッションとの別離を破滅的なものとして認識させる。