Outside

Something is better than nothing.

愛に適した日々

Macro

 総括すべき物事があるのかと言えば、日々、由無し事によって濁流に飲み込まれるように自分自身の存立を脅かされ、まさに「私」というものがだんだんと他者の領域にまで追いやられている気がするのだし、例えば山崎ナオコーラが「慧眼」(男と点と線 (新潮文庫)所収)の中で記しているように「会社に身を沈めていると、大義として『責任』を持ち、思考を停止させながら、日々を送ってしまう。責任、という考え方は、『この世に必要な私』を信じる自分の幻想によるものかもしれない」(P.28)ので、社会人生活を送る中で、日々忙しい忙しいと言い募り、さて、この「忙しさ」の由来は一体どこにあるのか、決して問われることのない自明の理として覆い被さってくる「仕事」によって、「私」というものの本来持っていた性質はだんだんと消え去っていき、前述のように「この世に必要な私」へと変質していくしかないのだろう。そしてやがては「『命令されたのだから仕方がない』。たったこれだけの言葉で、人は自分の心を守れるのだ」(上田早夕里『破滅の王双葉社Kindle版位置:3342)と思い込み、人間として本来あるべき姿から遠のいていくより他はないのかもしれない。

 そういった予感があったからなのだろうか、いやもっと冗談めいた意味を込めて、私は今年は「Love」を重視した年にしようと考えていたはずだった。それはパートナーへの愛や仕事そのものへの愛、「私」自身に対する愛、他者に対する愛……。多くの愛が、由無し事の濁流に飲み込まれる私の、道しるべになるはずだった。

 多くの場合、それは機能していた。私は多くのコミュニケーションと、それを上回る他人からの配慮によって生かされた。仕事は硬質さをもって私に迫り、論理性と非論理的な(そして属人的な)問題を残して私を悩ませた。そのたびに私は隣人を誘って酒を飲みに行った。多くのビールが消費された結果として、今がある――そう、もちろん、そうだったのだ、私は酒も愛すると決めたのだった。

 私は友人が欲しかった。仕事を通じた非人間的な付き合いではなくて、仕事を通じようが通じまいが、人間的な付き合いを欲していた。そして今年はそれが成し遂げられたように思う。一瞬でもそう思える瞬間があったということは(そしてそれが今も持続していることは)幸せなことだと思う。

 一時期、不本意な異動によって、私はどん底にいた。けれども、上述のように多くの人に助けられ、また自分でも自分自身の環境を変えようと努めた。それは私自身の変質による適応ではなく、私自身の存在をそのままに、不本意な変容なしの居場所を作ることができた。

 パートナーとの関係も相当に改善された。いや、改善という言葉はあまり適切ではないかもしれない。だが、そういった意味を通り越して、パートナーとの愛はこれまでにないくらいに深まった年になった。また、私は書くことが好きだった。これもまた私はもう一度、真正面から愛することにした。

 仲の良い人と年末に今年を振り返ったとき、互いに「なんだかんだで今年は良い年だった」と言い合えた。個人的な総括としては、そういうことになる。

 さて、そういったことを踏まえての来年になるのだが、「fit」ということをテーマに活動していきたいと考えている。これはフィットネスの一部でもあるし、何か自分自身にフィットしたものを行なっていきたい。