Outside

Something is better than nothing.

『キング・アーサー』(2017年)

 ガイ・リッチーの『キング・アーサー』を観る。

 イングランド王のエリック・バナ演じるユーサー王は権力欲に取り憑かれた魔術師モルドレッドをエクスカリバーを用いて撃退するが、ユーサーの弟でジュード・ロウ演じるヴォーディガンが愛する妻を捧げて得た力をもってして兄に逆らい、王国を乗っ取る。そのときにユーサーの妻は死に、幼子であったアーサーは小舟で娼館へと流されていく。長じてからチャーリー・ハナム演じるアーサーは悪友たちとともに悪事を働くようになっていたが、リーダーシップを発揮するようになる。また川底からエクスカリバーが現れ、王国の中には真の王の台頭が囁かれていた。アーサーは自分の育て親である娼婦がヴァイキングの白髭に殴られたことをきっかけに、その取引相手であった王国側と対立していくこととなり、エクスカリバーを抜いたことによってヴォーディガンに捕まり人々の前で処刑されそうになるのだが、メイジに救われ、ユーサーの家臣だったジャイモン・フンスー演じるベディヴィアの協力を仰ぐ。ただエクスカリバーを受け入れないアーサーに対して、訓練を施し、キャメロット城へ踏み込み、ヴォーディガンを撃退するのだった。

『シャーロックホームズ シャドウ ゲーム』(2011年)において、個人的には自分の映画視聴体験史上、もっとも甘美な瞬間の一つである森の逃走シーンを撮ったガイ・リッチーは、今後いかなる映画を撮るのか、と私は密かに思っていた。で、この映画が撮られたわけになるのだが、なんだかとても変なところに迷い込んでしまったかのような感じがするものだった。

 面白くないわけではないし、実際当初の副題であった「聖剣無双」という言葉がぴったりな映画であったわけなのだが、おそらくこの映画がコケた理由を考察すればドラマ部分の省略によるものだろう、と思われる。

 トロイ・ダフィーの『処刑人』(1999年)などにおいて、奇妙にドラマの進行を阻害するものとして、状況の再現があった。実際アクションは素晴らしいし、魅力はたっぷりあるのだが、このドラマ進行における省略を伴った再現が、ドラマの進行を著しく阻害した結果、ある種の失敗に至ったのだろうと私は考えている。

 同様のことがガイ・リッチー版の『キング・アーサー』にもあるのではないか、と思われる。それは諸侯との間の交渉に顕著だろう(もっと前に言えば悪友たちの日常を王国軍に語る場面もそうだ)。試練の後、今後について語り合っている彼らの様子が、その後の交渉シーンと奇妙にオーバーラップしていき、行ったり来たりを繰り返した挙げ句に、その(おそらく本来的にはドラマとして成立していた)シークエンスを端折っている。これはエドガー・ライトが『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)などで見せた細部のジャンプカット的な省略とはまた違った次元での省略であろう。

 結果として現前する画面はほとんどゲームプレイである。この「聖剣無双」という副題としてつけられるはずだった呼び名は、極めて的確な批評でもあったのだ。

 個人的にはこの省略によって余計なドラマを省いたというメリットは認めざるを得ないのだが、あまりに省略させすぎた結果として、まるでムービーシーンをひたすらスキップしていったような三国無双系のゲームプレイ動画を見せられているようだった、という映画になってしまったのかと思われる。