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コミュニケーションを肯定できるようになった

Communication

 比較的最近になって、コミュニケーションを肯定できるようになってきた。学生時代はさておき、社会人になってからというもの、例えば日常的な挨拶や顧客、あるいは上下関係を前提としたコミュニケーション等、さまざまな局面におけるコミュニケーションが苦痛というわけではないにしても、否定的な感想を持っていた。とはいえ、それを行わないわけにもいかない。

 完全に切り離す、という選択を取ることができず、かといって完璧にコミットするわけでもなし――つまるところ、中途半端な状態に留まっていたということになる。しかしながら、物事のあらゆる面に対して、白黒をはっきりつけられるわけでもない。中途にある状態のまま、否定的ではあるものの、完全に否定とはなりきらない状況にあった。

 否定的でありながら、私は飲み会がそこそこに好きだった。端的に言えばお酒が好きだったこともあり、一時期は毎日のように後輩を誘って飲みに行っていた時期もある。異性愛者として当然女性も好きだった。だから必然的に後輩は女性の後輩、ということになる。

 飲み会の帰り道に私は人疲れをよく起こした。もう誰とも会話したくないし関わり合いたくない、貝殻の中に閉じこもっていつまでも深海の孤独に戯れていたいという感傷に浸っていた。

 転機が訪れたのは、一度クオーター・ライフ・クライシス的な状況に陥って、仕事を休んだときのことだった。生活を立て直す過程で、ある人に非常に助けられた。彼はコミュニケーションをもって、私に手を差し伸べてくれた。具体的には休んでいる私に、継続的に声をかけ続けてくれ、復帰するときには傍にいてくれた。それは打算というよりは、彼自身の信条であるようだった。弱っている人には寄り添うべし。私は彼の手を握りさえすればよかった。その後、私は元通りに仕事に戻ることができた。

 それから後、あらゆる抑圧に対して、自分自身を馴致させ続けることに無関心になった。もちろん社会上、すべての抑圧から自由になることは難しいので、自分の取捨選択できる幅を増やした、と言ってもいいかもしれない。

 そうしてみると、傍から見れば傍若無人な振る舞いになっていたかもしれないのだが、私としては景色が変わった。以前のように飲み会に行くことも増え、適度なコミュニケーションを率先して行えるようになった――と同時に、嫌な相手とのコミュニケーションは不必要であれば避けられるようになった。

 私はいつの間にかコミュニケーションを肯定できるようになっていた。まあ、悪くはないかな、と思えるようになっていた。それは価値観の変容というよりも、進化なのではないか、と個人的には思っている。確かに私はコミュニケーションの意味をあまり納得できず、否定的な立場にあった。

 おそらく今もまた立っている地点は変わっていないのかもしれない。ただ、視点を変えることに成功したのではないか、と思うのである。今でも質的な変化というものは訪れていない。ただ、その彼が差し伸べた手を取ったときから、気づけば私は違うところを見るようになっていたのだ。

 

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